形彫り放電加工は如何にして育まれてきたのか?

佐々木和夫

11.番外編(その1)
 「モスクワ日本産業見本市」の出品機の状況と、その結末を書かなければ、この項をを閉じてしまうわけにも行くまい。何しろ世界でも最初で最後の加工液貯蔵タンク一槽式の電解放電複合加工機である。この機械の電解液は特殊なものではなく、ただの塩水で、溶け切れない分の塩が底に沈んでおり、槽の上半分が油である。電気的絶縁には最も悪い塩がたっぷり入っているので、放電加工に良いわけがない。
 何でそんなバカなことをと今更言うなかれ! 30年以上も前の話である。こうやれ! と言われたことを一概に否定できないことがあったのである。常識的な判断だけでは、飛躍したアイデアは出て来ないと言うような雰囲気があったかと思う。世界で初めてのことをやったのは良いが、現実の放電加工は調子が悪かった。塩水のために、放電の音も火花の色も冴えない。その昔、水−油エマルジョンで加工したこともあるが状況は似ている。絶縁耐力が低下するから、放電ギャップが大きくなり、能率は著しく低下する

 標準タイプの放電加工機も1台出品していたので、説明はもっぱら標準機の方でやっていた。何が何でも売って帰れと言うのは「塩」の方である。持ち帰っても国内では売りさばけそうにない。1槽を2槽にするくらいは簡単だが、電解と放電を同一電極で加工するのは難しいので複合機にするメリットはあまりなかった。
 この機械、時間は少しかかったが、結局は買ってもらえた。スタンコインポルトなる国の窓口が入るので納入先は不明だが、国の研究機関のようである。実用するというよりは、研究対象のようである。  契約が出来るまでに時間がかなりかかったのは、ほとんどネゴのためである。大幅な値引き要求に対して、どこまで抵抗して少しでも有利にするかの攻防戦である。三井精機さんなどは、さっさとあきらめて、持ち帰り準備に入った。全体的な値引き率とか、バーターの問題とかで、個別では決められない問題を含んでいた。かなり値引かれたが、ともかく商談成立してやれやれである。

 放電加工の創始者と言われるラザレンコ博士ご夫妻を表敬訪問する課題もあったが、先方から見本市会場にお出でになった。お二人とも巨躯である。握手したときの力の強いのにびっくりした。子供のような手が握り潰されそうだった。
 日本の見本市と違い、どの小間にも応接セット1つない。最寄りのカフェテリアまでも10分近くかかる。結局は立ち話しかできないようになっている。当時仮想敵国だから、あまり親密にならないよう、各所に秘密警察の目が光っているとのこと。

 場外の明るいところで、写真を撮らせてもらったり、サインをいただいたりした。奥さん終始ニコニコされていたが、ご夫妻でEDMの研究開発されるなど、史上でも珍しいことではないかなどと思ったりした。当時のロシアでは働いている女性が多く、かつ日本では男性の仕事と思われていた分野、例えば工作機械のオペレータなどにも女性の進出しているのが目立った。

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