形彫り放電加工は如何にして育まれてきたのか?

佐々木和夫

10.電極低消耗電源の上陸と初の海外出張
 昭和39年秋、晴海の国際工作機械見本市に、スイスAgie社から電極低消耗電源が出品された。チラチラと散発的予告情報はあったにしても、現実に目の前への出現は、日本の放電加工業界にかなりの衝撃を与えた。トランジスタなるものを使用した電源で、いろいろ特許も出ていると言う。
 見本市会場から、そのトランジスタ電源なるもので加工したサンプルなども入手して測定してみたが、確かに低消耗である。直径20mmほどのグラファイトの丸棒を横にして、半径分加工した物で電極径をクロスに測定すれば消耗長さがわかる仕組みである。確か1〜2%の長さ消耗率であったと思う。

 この事実は後からジワジワと効いてくるが、当座はまだ事態の認識がかなり甘かった。昭和40年代に入り、底付き型へのアプリケーションの拡大によって、放電加工機の設備台数が急激に伸びて来る。型彫り放電加工の歴史では最大の出来事であった。しかるに、ジャッパクスはこの流れにちょっと乗り遅れてしまった。

 昭和40年、会社としての対応は、取り敢えず低消耗電源アダプタの開発試作と、電解加工の技術向上の両面作戦である。低消耗電源の開発については、以後、現ソディック社長の古川さんがリーダとして担当することになる。電解加工の方は多分、渋谷さんの担当だったと思う。電解加工の加工精度向上は、時間が掛りそうな問題なので、当面の策として、電解で荒取りし、放電で仕上げ加工を行おうとする電解放電加工機なるものが作られた。しかし、技術トップの発想により電解液と油を同じタンクに同居させると言う無茶なことをやった。確かに比重で上下には分かれるが、拡散現象というのがある。技術集団などと言われながら、こんな事をやっては恥ずかしい。「聞く耳」は皆持っていたはずだが?

 この複合機、当分商品になるまいと思っていたら、飛んでもない話が我が身に降りかかって来た。この大変な機械を事もあろうに「モスクワ日本産業見本市」に出品し、そのアテンドに私に行けと言うのである。相棒は、入社して間もない西島さん(現KHS社長)である。その頃、営業も池貝依存の体質から脱皮し、強化しようということで、積極的に外部から人材を求めていた。神宮司さん(元ソディック会長)らもその頃に入ってきた。国内景気の低迷に当たって海外への販路開拓に人手も必要である。  一方、低消耗アダプタの方の手作り試作品は、早々に出来た。トランジスタ電源は特許問題がクリアになるまで保留し、コンデンサの放電時間を伸ばして低消耗条件を得ようと言うものである。このアダプタ、中味はコイルとか抵抗ぐらいで何もない。加工してみると確かに電極が消耗しないが、加工能率も極端に低い。この電源方式の特徴は、ラジオの周波数を合わせるかのごとく、アナログで、うまく同調を取るところにある。少し使い慣れると、音が一番の判断基準になった。高い音ほど電極消耗が少なくなり、更に数音階高くなると短絡、異常放電である。この甲高い音が数秒続いたら、電極、ワークをメンテしないと復帰しないのが最大の問題であった。

 ところで、モスクワへの出発は6月下旬と決まり、4月頃から合間を見て準備に掛かった。この複合機1台しか作っていないので、出荷したらトレーニングも出来なくなる。ロシア語も少しは習っておきたいと西島さんと二人で渋谷の「ロシア語学院」の短期講習にも参加した。その渋谷でこの春、西島さんと軽く(?)一杯やったとき「YJS短信にそろそろ私も登場するんでしょ?」と言うもので、途中を急いで来たが、この旅行記は書けばいろいろあるので、詳細と後半は番外編にしたほうが良さそうである。
 日本産業見本市団体さんの出発は、結構にぎやかであった。今のように海外出張の多い時代ではないので、物珍しさもあってか横浜港の大桟橋は、我々乗船の「バイカル号」を見送る人達でいっぱいになっていた。ナホトカまで53時間の船旅である。それからハバロスクまで十数時間汽車に乗り、そこから7時間モスクワまで飛ぶ。当時のヨーロッパ行きコストミニマムコースである。

 モスクワに行くプラスアルファとして、放電加工の創始者と言われるラザレンコ氏に、出来ればお会いすること、ロシアのEDMの実情を見てくることなどの課題もあった。何しろ鉄だか竹だかの「カーテン」がまだあったから、日本に情報が入って来るのが遅くなるし、薄いのである。
 見本市が始まって間もなく、会場を抜け出して、「ベーデーエヌハー」なるロシア産業博覧会を見に行った。見本市は18日間というロングランで、毎日夜8時までである。交代ででも抜け出さないことには、何も見られなくなる懸念もある。と言うわけで交代で度々抜け出したのであるが、こんな単独行動の時に少しは習っておいたロシア語が役に立った。

 産業博覧会場は、かなり広大で、「放電加工は何処にありや?」つたないロシア語と会場地図とで辿り着いたところは、EDMだけの一室で、十数台の機械が置いてあった。当時日本では名前も知られていないワイヤ放電加工機が年代順に7台もある。型彫りの加工サンプルはほとんどグラファイと電極で、大きいものはクランクシャフトの鍛造型などであった。恒久展示場と言うことで、置いてあるだけであり、動かしては見せてもらえない。
 当時アメリカでは90%がグラファイト電極とは聞いていたが、ロシアも同じではないか? 日本でもあまり毛嫌いせずに使ってみないといけないようである。

 この博覧会場では加工するところが見られなかったが、会期終了後、日本の機械技術研究所のようなところで実演を見せてもらった。ゴム長靴の底の金型と言うのであったが、毎分1mm以上の速度で入って行く。速いことに驚いた。8分程で加工は完了したが、面は当然荒くこんな面で良いのかと聞いたら、「これでOK」とか。日本とはえらく違うが、そこが参考になる。
 もっとも「これでOK」にも限度がある。その後、あるモータ工場を見学したが、品質があまりにも悪い。間もなく自分の乗ったトロリーバスのモータが焼けて煙を出した。乗客は誰も騒がず整然と降りて行ったのに2度びっくりだが、また別のバスが煙りを出しているのを見たから当時は日常茶飯事だったようである。モータが焼けたら運が悪いと思って、降りれば良いのだから「これでOK」かも知れない。ダンプカーと衝突する事故にもあったが、これもただ降りるのみである。両方の女性運転手が激しく口論を始め、乗客ごときには目もくれなかった。文句でも言おうものなら怒鳴り返されそうな雰囲気である。

 見本市会場、日本と大きく違うのは、女性技術者の来場が多いことで、EDMのオペレータは女性の方が多いかのごとく技術的な質問を受けた。印象に残ったのは細穴加工の質問である。ワイヤ放電加工の溝幅以内の穴が開かないか?と言う事のようである。当時のレベルではオス、メス別々にワイヤで切って、均一なクリアランスを保つことなど考えも付かなかった。
 会期が終わったが、出品した電解放電複合機を成約するまで帰るなと言うので、粘らざるを得ない。そんなこんなしているうちに、多田さん(現エム・シー・ソディック部長)からの手紙で、神宮司さんの営業部長、和泉さんの工場長などの人事異動を伝えて来た。これでは、ますます売り払わねば帰れそうもない。
 モスクワ生活も私にとっては悪くなかったので長くなることは少しもかまわない。生活はまことに健康的である。ホテルがモスクワ郊外のオスタンキノなる公園のそばにあり、環境も良い。食事はホテル内のレストランとカフェテリアを利用していれば不自由はない。強いて不便と言えば、どの店も閉店が早くて、晩飯を食べそこねたりするくらいである。黒パン一切れを分けて朝まで我慢したことがあった。

 ホテル代が1日2$という超格安なので、こんな生活では会社規程の1日21$(課長待遇)の半分も要らない。毎日、剰余金が増えていった。船で友達になった報道関係者は1日35$のホテルだそうだからえらい違いである。彼の1泊分で当方は半月分支払える。そういう意味では我々東邦物産(三井物産のダミー)組はラッキーした。ホテルの斡旋など国家レベルのシステムで決まるので、現地ではもう代えられない。1日2$では冷蔵庫もテレビもないが、もともとが無ければ無くて済むものである。因みに当時の物価は、ボリショイ劇場のバレーが約4$、一流レストランでの夕食がワイン含んで5〜8$、コーヒーが0.1$くらいである。ついでにモスクワに3軒だけあるパスポート携帯バー(外国人だけ相手にして外貨を稼ぐ)で、ウオッカやワインが1ボトル1〜2$であり、ボトル2本も飲めやしないので、3〜4$もあれば充分足りた。なお1$が0.9ルーブルの時代だから、変われば変わったものである。

←前へ    目次    次へ→

Copyright(C) 1999-2009 by YJS All Rights Reserved.