形彫り放電加工は如何にして育まれてきたのか?

佐々木和夫

9.東京PMセンターの設置と「放電加工技術研究会」の活動
 昭和37年、東京都世田谷区に販売・サービスの拠点を設け「PMセンター」と名付けた「プリベンティブ・メンテナンス」の意味である。1階にショールーム、2階に講習室を作り、その関係を私にやれと言うことである。晴海の常設展示場は引上げたので、その関係の業務の継続とサイドワーク的なものとしては「放電加工技術研究会」関係がある。後にはサービス業務も含まれた。
 放電加工のアプリケーションが今のように進んでいない時代なので、放電加工の普及発展と、加工技術の開発・指導を任務とし、私のポジションは「加工技術開発室」と名付けられ、新社屋での業務を開発した。

 この時点における課題の一つは、前にも書いたように、電極消耗をいかにカバーして底付きの金型を加工するかである。鍛造型から始めたと書いたが、散発的にはプラスチック、ダイカスト、ガラス、ゴムなど、あらゆる金型の加工相談やサンプル加工依頼があった。そうなると少しは金型のことも勉強しなければならない。
 幸いに、池貝鉄工グループに、「池貝精密金型」があり、工場長は大学で1年先輩の片山さん(後にジャッパクス工場長から精巧舎役員)だったので、いろいろと教わった。また、同級生に池上金型の池上恵蔵氏(現日本金型工業会会長)がおり、早々に金型工場見学などさせて頂いたりして、大変にお世話になった。

 その池上金型からプラスチック金型の放電加工の相談談を受けた。ラジオケースの型で機械加工では極めて困難な形状とのこと。おそらく三次元プラスチック金型の最初の放電加工だったと思う。その頃さらに、池上金型には同級生の佐々木哲夫氏(池上金型専務から現日本工業大学教授)が入社しており、放電加工も担当したため、その後、具体的な話は2人の間でまとめていった。
 この最初のプラスチック金型の放電加工には電極消耗見込み法(私が勝手に命名)なるものを用いた。電極消耗の補正には、他に電極交換法と電極修正法とがある。電極消耗見込み法とは簡単に言えば消耗する分を余肉として予め電極に付けて置くと考えてもよい。見込み量が狂うと形状も狂うので、ミニサイズ電極での予備テストをやり、消耗率を掴んでおく。結果はOKで、当時としては大型の機械を買っていただいた。余談ながら、この佐々木さんにはその後、「放電加工技術研究会」の技術委員をお願いし、多忙の中執筆やら講演やらとご協力いただいた。その代わりというか、私も金型工業会の催す講習会講師や「金型便覧」への執筆など頼まれた。池上金型の先代の社長もある時期、金型工業会会長をやられており、浅からぬ縁である。

 電極低消耗電源が無い時代、底付き加工をやるために、補正方法をいろいろ考えた。2、3例を挙げてみる。時期が前後して、ある大手から平歯車の冷間鍛造型のテスト加工があった。こちらはストレート加工だが、底面のコーナを出来るだけシャープにという注文である。このような物も電極消耗の多い電源の苦手とするところではある。材質はステライトだったと思うが、直径1mくらいの鉄のリングの中心にはめ込んである。テストに金が掛かるなら必要なだけいくらでも出しますと言われる。
 銅タングステンの平歯車電極を5枚ほど重ねた電極を作った。ダルマ落としの要領で下から1枚づつ外して行く電極交換法である。電極を5枚も交換すればかなりシャープになる。ぜいたくな方法ではあるが確実で早い。これも成功して受注につながった。

 ついでに、電極修正法での失敗例を上げてみましょう。某大手カメラメーカの文字を浮き出す加工である。カメラ表面に凹文字のブランド名などを入れるための型で、ポイントは金型の凸文字の根元が極力シャープでないと、製品の方の文字にシャープさが得られない。電極を研削で修正しながら加工する方法によった。
 3回目かの修正まではうまく行っていたが、最後の修正再取付けの時に、取付け基準面に加工屑を噛んだらしく数ミクロン芯がずれた。不注意による失敗である。デリケートな加工にはそれなりのジグが必要であることを痛感し、自前のジグ開発の端緒になった。

 話し変わって、「放電加工技術研究会」の活動も益々活発になり、全国的規模に発展していった。各専門委員会が出来、九州から東北までの支部も出来た。この辺までの技術の集大成として、「放電加工技術便覧」を作ろうということになり、編集委員会がスタートした。日刊工業から出版することになり、ある段階から事務局をバトンタッチした。
 私も執筆を割り当てられた。執筆者の中の最年少で、唯一20代である。皆に負けないものを書こうとして張り切り過ぎた。しかも、テーマは誰も書いたものがない。「加工屑の処理」である。

 昭和38年正月、どうやって執筆時間を捻り出すか?片手間に書くほど簡単ではなさそうである。そこで「アフター5」ならぬ「アフター8」に執筆時間を定した。どこまで可能かの興味もあって、一晩おき徹夜してみることにした。「アフター8」の意味はその頃になるとほとんどの社員が帰って静かになるからである。
 一晩目位はどうということもない。その代わり徹夜明けの日は5時ピタとはなかなかいかないが早めに帰る。2晩目、3晩目となるに従いコーヒ−を飲む量が増えてきた。まったく参考資料なしに400字詰め100枚の割り当てを書くつもりなのだが、1晩数枚のペースで前途多難。6、7晩目くらいには1時間に1杯ペースで、濃いブラックコーヒーを飲む始末である。それでも夜明け頃にはいつの間にか机に突っ伏していた。能率も落ちるし、はてどうしようかと思っていたら、やりたくても出来なくなってしまった。

 月曜日に会社に出てきたら会社が無い。日曜日に火災事故が発生して焼け落ちてしまったのである。我が家にはまだ電話が無かったので知らせてもらえなかった。原因は集中暖房装置の欠陥によるものとのこと。原稿どころの話ではなくなった。多少締切り日に遅れても大儀名分が立つ。原稿は灰になった。
 放電加工機はどうなった?表面に出ている可燃物はみな燃えてしまったが、何と加工液供給装置の中の灯油は無事だった。機械全部では1000g以上あったから、これらも燃えていたら、もっと大変だったろう。もしも機械を稼働させていて放電加工機からの出火だったら私もだだでは済まなかった。  とりあえず本社に仮の場所を設けて極力業務に支障がないようにしながら再築を急ぎ、数ヵ月後には復旧した

 原稿焼失で困ったか? 大した事はない。よく考えて指した将棋は1週間くらいメモリされるものだが、充分に想を練って書いた文章は、頭のなかにメモリされているので、呼び出すだけの手間でよい。  この頃だったと思うが、私に大変心強い味方が来てくれた。三水篁さん(元ソディック専務)の登場である。いろいろとユニークで、東京芸大出て放電加工技術をやると言うのである。入社の日、「叔父の三水と間違はないようにタカムラと呼んで下さい!」それ以来皆タカムラさんと呼んでいたので、外部の人ほとんどが「高村さん」と思い込んで、ファックスや手紙が来た

 私より1つ年長で、その後何かにつけて相談相手になってもらったり、別の視点からの放電加工改善提案をもらったりした。電極消耗理論では、数式を駆使して、電気加工学会に発表もしたのだから大したものである。それもさる事ながら、酒、囲碁、将棋、麻雀何でも強く、徹夜加工などすると叔父さん同様ボトル1本が空になった。その後に親戚の石坂さん(現放電加工センター社長)も入って来て、彼もまた酒も囲碁、麻雀も強かったから血統かも知れない。
 余談ながら、このPMセンターには宿直室があり、交替で泊まっていた。夜の懇親会をやるにはいい拠点になる。酒の好きな人、囲碁、将棋の好きな人にとっては具合の良いシステムで、囲碁リーグ戦などやっていた。ある晩泥棒が入ったので、宿直者が怪我でもしたら大変だと止めにしてしまったのは残念だった。

 この年の暮近く、日本で初の「放電加工技術便覧」が完成、発行された。A5版、520ページ定価2,500円で初版3000部である。因みに、高木先生の「金型工作法」は、400ページ定価1,300円であった。初めて印税なるものを3万円いただいた。この月はたまたま雑誌の原稿料とか、何とか協会の講演謝礼とかも入り、副収入が給料より多くなった。協力していただいた人達と飲み屋に行くから、いずれは無くなる金である。
 年が明けて昭和39年、巷では「東京オリンピック」で騒いでいたが、放電加工業界では海外でトランジスタ方式の電極低消耗電源が出来、東京国際見本市に出品すべく準備が進められていた。ジャパックスでは次々と新しいアイディアが生れて機種が多様化し、極言すれば、「型彫り放電加工機もやっています。」の状況ではなかったかと思う。

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