放電加工補遺物語
− 続・九州出張旅行(1/2) −
 九州に関して、最近の話題から思い出すのは、 松野頼三代議士の私設秘書と称する人が社長をやっていた、 熊本の"ジャパンリッチ"と言う会社のことである。 会社そのものは当時、京セラの仕事をやっていた普通の会社だが、 何しろこの社長の言動が少し変わっていた。
 私の会社人生でも、放電加工機特別付属品の納期の遅延を"国会で問題にしてやるぞ" と脅かされたのは、この社長からだけである。 国会で問題にしたらジャパックスくらいの会社は吹っ飛んでしまうぞというわけだが、 冗談半分にしろ、国会で私企業の納期の遅れを取り上げた話はいまだに聞いたことがない。
 この社長は大臣などを歴任した松野頼三氏の私設秘書ということで、 熊本市内水前寺のビルに事務所を持ち、熊本空港の近くに工場を持っていた。 私がこのジャパンリッチというちょっと変わった社名を耳にしたのは、 起業の過程における放電加工機の引き合いの時点からである。 問題はその時から始まったが、追々述べていってみることにしましょう。

 先ずはある時、熊本のジャパンリッチに着くまでにいろいろあった旅の話から書いてみます。 大阪に赴任していた昭和54年だったかのまだ寒いある日、 岡谷鋼機九州の掛札さんから、 「ジャパンリッチに同行訪問してくれ。宮崎県内にも引き合いがあるから宮崎空港で待ち合わせましょう。」 と言う電話をもらい、朝一番の飛行機で出かけて行った。
 大阪空港から宮崎空港までは順調に飛んで行ったが、 霧のため視界不良で降りられないと旋回し始めた。 掛札さんは早起きして車で福岡から遠路はるばる下に来ているはずである。
 何回かまわっているうちに幸い霧が晴れてきてやっと着陸可能となった。 さぞや待ちくたびれているに違いないと急いでロビーに出て行ったが居ない。 さては待ちきれなくなって先に行ってしまったか? 携帯電話のない時代だから赤電話で会社に情報を求めるしかない。 電話に出た人は予定通りのはずで、特別な連絡は入っていないと言う。
 一つだけの空港食堂でコーヒーをすすりながら待っていた。 昼近くになってやっと掛札さんが到着した。 霧のため高速道路が閉鎖されて、下の道を走ってきたと言う。下界の方も大変だった。 それに車で来ているのは会社には内緒だから、霧で遅れているとは連絡できない。 当時岡谷鋼機では社用に車を自分で運転することは禁じられていた。

 予定を大幅に遅れて県内の引き合い先に向かった。 延岡市のA鉄工にも行ったと思うがそのへん記憶があやふやである。 いずれにしても予定がずれて掛札さんが悩みだした。 熊本に行くには九州山地を横断しなければならないが、 夜の山越えは今の時期路面凍結して危険があると言う。
 九州山地は延岡の近くには高千穂の峰もあり、 熊本との間には阿蘇国立公園をはじめ沢山の山々がある。 「まあ行けるところまで行ってみようや」となった。 ところどころ残雪はあったが、雪ところは徐行して何とか肥後の国は熊本平野に無事降りてきた。
 熊本からの私の連想は、加藤清正と熊本城であり、西南戦争での大激戦であり、 隠れキリシタンの島原であるが、 もう一つは"肥後は火の国よ恋の国♪燃える中岳よ胸焦がす♪・・" とか坂本冬美のファンになるきっかけになった演歌"火の国の恋"である。

 遅くはなったが、無事火の国に入ってやれやれである。 ところが一難去ってまた一難、遅くなり過ぎて駅の旅館案内も閉まっているし、 泊まるところが見つからない。 熊本市内の旅館、ホテルを次々に聞いてまわったが、何かの行事があってどこも満室御礼であった。

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