放電加工補遺物語
− 九州出張旅行(2/2) −
 阿部さんは九州のある会社で働いた後ジャパックスにカムバックしてきた。 私が九州に出張すると知って、ぜひこの居酒屋に寄ってよろしく伝えてくれとメモをくれた。 九州時代にはかなり通ったらしくある。
 中洲の近くにビジネスホテルをとり、夕方に散歩がてらその居酒屋を探してみた。 ショーウィンドウ代わりの大きなガラス水槽にいろんな魚を泳がせている活魚料理の "ひしむら"と言う店である。母と娘でやっているという。 カウンター10席程度、テーブル数組の落ち着いた雰囲気の店だった。
 カウンターの止まり木に座って、上品で知的なママさんに、 なぜこの店に現われたかを伝え挨拶をした。 そのうちに隣で飲んでいた客も話しに入ってきて盛り上がってきた。 魚もうまいし酒もうまいし、飲むほどに酔うほどに近辺の客ともすっかり意気投合して、 つい1時だか2次の閉店まで居てしまった。 はじめて一人で行った店でこんなことは私の生涯にも一度きりである。 何とも居心地がよかったようだった。

 ずいぶん飲んで食べたからお勘定もかなりになるだろうが、もうみな胃袋におさまってしまった。 覚悟して「お勘定」と言ったら、「お金は要らない」と言われたのにはびっくりしキョトンとした。 阿部さんからの連絡で、「私のおごりだ」と伝えてきたとのこと。 自分の金だと思うから、好きなように飲みかつ食べたのに、 阿部さんに身銭を切ってもらうことは恐れ多い。払おうとして、しばらく押し問答したが結局負けた。
 その店から正月には年賀状、夏には暑中見舞いが長い年月延々と送られてくるようになった。 それに必ず季節の俳句が添えてある。母娘で俳号もお持ちのようだった。 世田谷に移ったり長津田に移ったりしているうちにはがきもいつの間にか途切れ、 この店が今もあるのかどうかもわからなくなった。中州に行ったら見てきて教えて下さい。

 さて九松だが、ワイヤ放電加工機2台、自動プロ1台を納入設置した大きい工場が、 ある日全焼するという事故が起こった。 新聞の全国版にも載ったが、損害総額数十億円とか書いてあった。
 この工場には、スイス製の汎用放電加工機が2台入っていた。 その辺から出火したらしいという話を聞いたが、明確な原因は公表されずじまいだった。 焼失してしまった今、原因を追求して罪人を出しても仕方ないという事業部長の配慮だとは後日掛札さんから聞いた。
 早速、焼失した納入機の代替え品と、スイス機に代わる汎用放電加工機のオーダーがきた。 最短納期で協力してくれとのことだった。 工場の再建も異例の急ピッチで進め、極力業務に支障をきたさないようにするのだと言う。 そのため、事業部長自らが、声を掛けながら夜食を配って歩いたという話も聞いた。

 後日、その事業部長と晴海の見本市会場の通りで偶然出会った。 たまたま昼食どきだったので、お誘いして一緒に食事をした。 「その節は大変な無理を聞いていただいて」とお礼の言葉をいただいた。
 その節にお世話になったメーカの人達へのお礼も兼ねて出てこられたとのこと。 そんな人柄が好ましかった。 その頃から前後して、九松大分工場などからの引き合いが活発になってきた。 復旧に当たっている間も、業務に支障がないよう、他工場に協力を求めたり、 人員を派遣したりしているうちに、放電加工に対する認識も高まってきたのではないかと思う。 交流を重ねているうちに福岡のメンバーも好意的になってきたことも幸いした。
 特にJAPT自動プロにファンができた。 ワイヤの自動プログラミングに使う以外の時間をフルに事業部内のデータ処理などに使いこなして、 注目を集めるような人が出てき来た。 当時、このJAPTにのめり込んだFさんという人が、ジャパックスにもいろいろコンタクトしてきたし、 後に九州にソフトの会社をつくるきっかけになったと聞いた。
(つづく)

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