放電加工補遺物語
− 九州出張旅行(1/2) −
 九州には何十回となく出張し、いろんなことがあっが、そのほとんどが、 岡谷鋼機九州支店の掛札さんや稲垣さんと同行してのユーザ訪問である。 特に大阪赴任時代のある時期は九州地区も担当したので、 懸案事項が少し溜まってくると出かけて行った。 そして泊まりの夜は酒好きの掛札さんらと一杯やるのも楽しみで下手なカラオケもよく歌った。
 今回は、逆転受注からはじまって、 納入設置した工場の全焼とかいろいろなことがあった九州松下電器のことを 中心にして書いてみましょう。 訪問した回数も関わった時間も受注額も九州地区ではダントツ一番の会社なのである。

   昭和50年代前半、大阪の責任者として赴任するとき、 西の方では何と言っても松下グループがマーケットリーダーだから、 松下グループの受注を極力確保せよと誰かさんにハッパをかけられて行った。 九州地区では言うまでもなく九州松下電器、略して"九松"が受注の目標である。
 その九松からワイヤ放電加工機の引き合いとテスト加工の依頼があり、 いよいよ行動開始だが、4社競合のテスト加工の出来が残念ながら最悪だった。 ワークには刻印が入っており作り直しが不可である。 そんなわけで出来の悪いサンプルを持って行かざるを得なかった。   案の定、先方担当者のTさんから、かなり過酷な評価を受けた。 もう一回チャンスをくれと頼んでみたが、Tさん聞く耳を持たなかった。 おまけにその事業部の最高責任者である事業部長が昔の放電加工担当責任者時代の メンテナンスの問題で、アンチジャパックスだと言う。まったく四面楚歌である。
 岡谷鋼機の担当者掛札さんは、岡谷の他の人達と違ってその程度で簡単にあきらめてしまうような人ではなかった。 実際、担当者が他の人だったら、九松の件は100%ここで終わっていたと思う。 掛札さんは岡谷ではちょっと異色な人で"はみ出し派"とでも言うのであろう。 私はそれに少なからず好感を持っていたが。

 実はこの少し前に大阪の松下電子部品で、同じようにテスト加工結果が最低と言うのがあり、 岡谷大阪の担当者はすぐギブアップしてしまった。 大手は手間ばっかり掛かってそれに見合う利益が得られないから無理もない。 ついでながら、この大阪の件は私が粘って逆転受注したがかなり手間がかかった。
 九松では掛札さんの執念の巻き返しが始まった。 先ずは酷評した担当者の自宅を休日に訪ねて行って切り捨てられないように頼み込んだ。 あるおみやげを持って行ったが、それは受け取ってもらえなかったとのこと。 九松のその事業部に強い商社の人をサブに入れて人間関係を修復していった。 時間は掛かったが、これが結果的には成功した。
 そんなこんなで何回目かには私も事業部長に面会する機会をつくってもらい、 メンテについては遅滞なく実施するよう約束させられた。情勢がしだいに好転して行き、 厳しい価格の稟議書も通り何とか受注にこぎつけたが、これが突破口となり、 その後、大分工場中心に20台ほどの受注につながった。
 福岡に泊まった夜は、掛札さんらによく飲みに連れていってもらったが、 中州に一軒だけ独自に行くようになった居酒屋があった。 創業時の放電加工一号機のメカの設計者だった阿部栄治さん (ジャパックスの後に、今はないがソディック傘下S&Oの社長)の紹介によるものである。

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