放電加工補遺物語 |
− 若い頃の関西出張(2/2) − |
のちに私が大阪に赴任した時、住友電工粉末合金事業部にもしばしばお伺いしていたが、
若い頃に面識のあった広松さんと顔を会わせると、
「ジャパックスさん頑張って!」と言われたが、
水ワイヤ放電加工機の超硬合金電触の問題は残念ながらクリア出来ず、悔しい思いをさせられた。
電触電圧をかけないような電源にして一見良さそうなデータも出るのであるが、確実性に欠けた。
関西に出張に行くようになってから、どうしても寄ってみたいところがあった。京都である。 高校の修学旅行で、大阪、奈良、京都と行ったが、京都が特に印象深かった。 「またお越しやす!」とか言われたのが、暗示のように耳にこびりついていた。 京都弁の魅力のせいかもしれない。観光バスでめぐったところの印象も非常によかった。 京都にはぜひ寄ってみたいと思い、ある春の日の大阪出張予定を週末にしてもらい、 日曜日をプライベートの京都見学に当てることにした。 格好をつけて、会社で購入したドイツ製カメラ"ライカ"を携帯して行ったが、これが結構役に立った。 大阪の居酒屋で夕食をとり、待望の京都に向かった。 その日は京都の適当な旅館に泊まって寝るだけという気まぐれ旅で、 旅館の予約もしていなかったのが不覚の至りだった。 夜、京都に着いたら妙に賑やかな雰囲気なのである。 記憶が正確ではないが、"○○上人開祖八百年記念大法要"とかの幟や垂れ幕が駅の至る所にある。 百年に一回の行事に参加しようという信者か野次馬かの群が右往左往していた。 旅館案内ではこの日の京都の旅館はすべて満杯と言う。 「今頃来てあんたアホとちがうか?」という顔をされた。 仕方なく、タクシーに乗って、ダメモトで宿さがしをやってみた。 たまたま乗ったタクシーが、初乗り75円というタクシーだった。 初乗り100円か120円の時に75円という価格破壊の先駆である。 料金はともかく学生アルバイト?だと言う若くて親切な運転手で幸いした。 京都の町を縦横に走り回りながら宿さがしに奔走してもらった。 次々と断られた末に何とか見つかったのは賀茂川別館という侘しい和風旅館だった。 気の毒に思ってか?布団部屋でも良かったらと言うのである。選択の余地はもうない。 時刻も10時を回っていたと思う。 布団の谷間に布団を敷いてもらい、目が覚めしだい出ていくからと料金を前払いした。 修学旅行以来あこがれてきた京都だから、この布団と枕しかない侘しい部屋に長居は無用である。 翌朝6時頃には宿をとび出した。 歴史ある神社佛閣を見学しようと言うのが、京都に来た主な目的だが、 あわよくば舞妓さんも見ようと言うので、足は祇園の方に向かった。 ぶらぶらと円山公園あたりを花見しながら歩いていたら参加フリーの撮影会にぶつかった。 主催者側が用意したモデルは舞妓さんに稚児さんと建物内にはヌードさんもいると言う。 たまたま自慢のライカを持っていたので、願ってもないイベントに出会った。 八坂神社の赤い楼門をバックにした二人の舞妓さんの写真は絵になった。 何と言っても歴史の重みがある。スサノヲノミコトを祭神とするという八坂神社は以前は祇園社と言ったそうで、 広大な円山公園はその境内だったというからずいぶん大きかった。 その門前町が俗に言う祇園で、"祇園小唄"ですっかり有名になった。 「月はおぼろに東山(中略)祇園恋しやだーらりーの帯よ」と口ずさみながら、 舞妓さんを探しに来たというわけである。東山には見どころが沢山あったが、 神社、佛閣もさることながら、危うく戦火を免れた古都らしい旧い町なみが印象に残った。 京都は原爆の第三のターゲットになっていたというから終戦がもう少し遅れていたら沢山の人命も貴重な文化遺産も大変なことになっていた。 ぞっとする。ともあれ念願の京都、それなりに楽しい思い出を残して帰路についた。 |