放電加工補遺物語

− 自動車産業と放電加工[4](1/2) −
 自動車業界では、当時の両横綱であったトヨタと日産に多く関わったが、 その他のカーメーカにも大なり小なり関わりを持った。 その一端について書きしるしておこうと思う。

 ところでその前に閑話休題。 最近話題になった"ものづくり大学"の初代学長に招聘された高名な哲学者の梅原猛さんのことを もっと知りたいと思っていたら、地元の図書館に"魂の言葉"と言うある人との共著の本があり、 とりあえず借りてきて読んでみた。
 そのなかに「私は東北大学の学生であった実父と、 下宿の娘で女学校を出たばかりの母との自由恋愛によってつくられ、 生まれた子ですが…」とあり、間もなく父母二人とも結核にかかったが、 父だけ一命を止めたとある。 お母さんは亡くなったため、名古屋の梅原家の実家の伯父夫妻に育てられたとのこと。
 そのあとの方に、「後にトヨタの技術部長になり、常務になり、 最後にトヨタ中央研究所の所長になった、私の実父のように、 私も数学が得意であり…」とある。実はここで驚いて椅子から身を起こした。 梅原半二さんというフルネームが忘却の彼方から浮き上がってきたようである。
 実は約47年前にトヨタであの印象に残る三千台のお話をされた大先輩の名前がどうしても思い出せずにいた。 確か常務さんで、技術屋さんだったあたりしか記憶がない。 何気なく読んだ本から、梅原さんに違いないと確信した。 名車コロナの設計者としてトヨタの発展に多大の貢献をしたそうである。

 話戻って、トヨタ、日産に次いで多く訪問したのは、広島の東洋工業(現マツダ)である。 特に例のロータリーエンジン関係の部品加工の件で、 オイルショック前のある時期は毎月のように定期訪問した。 三角おむすび形のローターのシール溝の加工を放電加工でやれないかと検討およびテスト加工を 依頼されたのである。
 三角おむすび形のローターの外縁近くを2本のシール溝が一周する。 機械加工では三辺の交点付近の処理がうまくいかないのと、 切削ではバリの後処理がわずらわしいとのことだった。
 この話に営業の窓口が多大の関心と期待を寄せた。 その当時は岡谷鋼機広島営業所がやっていたが、 うまくいけば、部品加工専用機がかなりの台数必要だろうと"取らぬ狸の皮算用"をする。 もともとマツダとその系列には変わり種の機械が入っていた。
 マツダに最初に入った機械は、私の記憶によれば、 昭和30年代前半の総型バイトの放電研削盤である。 この機械は簡単に言えば、ダイヤモンド砥石の代わりに、金属回転円板を使って、 超硬合金の総型バイトを放電で成形する機械である。 通産省の補助金をもらって開発した機種で、実験と報告書は私が担当した。

 その頃はまだ、池貝鉄工広島営業所が営業の窓口だったが、 まだ新幹線のない時代なので、ほとんどは早朝に広島に着く夜行列車で行った。 当時、夜行で行って夜行で帰ってくるのが特に珍しくなかったが、 寝台がとれないときは、座席に約十時間だからかなり疲れる。 まだ飛行機は高くて若造では乗れる分際ではない。
 それでも、広島に行くと、おいしい魚とうまい酒の店に連れていってもらえるので、 若い頃は、それに釣られて喜んで行ったようである。 広島からの連想が旨い酒と肴に定着した。特に旬の新鮮な生牡蠣においしい酒は印象に残る。 余談ながらその旨い酒の正体が分った。トロリとした濃厚甘口の酒だったのである。
  マツダのロータリーエンジン車が成功すると、自動車部品業界にも大きな変革が起こるので、 業界では大きな話題になっていた。 新しいエンジンに対応するためにも広島通よいで動向を見ておく必要があった。
  新しいものだけに、電気加工全般の新しい応用が話題に上っていた。
 面白そうな話題がいろいろありそうだったが、 あのオイルショックの到来で冷水を浴びた。 ロータリーエンジンは燃費があまりよくないので、急ブレーキがかかってしまった。 大きな開発投資と先行き不安で経済的にもピンチになって、銀行が入り首脳陣が交替した。

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