放電加工補遺物語

− 自動車産業と放電加工[4](2/2) −
 新社長になったYさんは、我々との打ち合わせにも出席されたことがある生産技術部長で、 この難局を技術屋社長さんで乗り切れるのかなと思っていたら、 その後いろいろ外資との提携関係のからみで交替した。
 ロータリーエンジン部品加工の夢もはじけて、広島定期訪問もとぎれてしまった。 形彫り放電加工機も何台かは使ってもらっていたが、 鍛造型の放電加工にはアメリカのシンシチナ社製放電加工機が強くて、 本格的にはなかなか入り込めなかった。 早くからアメリカ式に、グラファイト電極による放電加工をやっていた。
 当時、マツダはまだ工作機械部門も持っており、 その関係で、シンシチナ社と交流があったようで、社長の息子が体験就職したりして、 その絆は容易に破れないという営業の報告だった。 それではというわけで、有力な下請け企業にも何社かアタックしたが、 グラファイト電極に関してはまだアメリカより劣っていたので成功しなかった。
 その代わりというわけか電解バリ取り機の引き合いなどが多く、何台か注文をいただいた。 ドリル加工の内部交差バリの除去とか、歯車の面取り加工などである。 超大型放電加工機の引き合いで行ったこともあるが、経営がまだ不安定な時期で、 具体的な話には進展しなかった。

 ところで、カーメーカのなかで、私が一番最初に放電加工機の検収、 加工技術指導に行った会社は、埼玉県の本田技研工業(現ホンダ)である。 導入が早かったのは、まだ二輪車ばかりで四輪車はやっていないから、 金型も比較的小さく取り付きやすかったせいである。
 初回訪問時に少々驚いたのは、男女とも大勢の人が白の制服で統一されていたことであり、 同級生のS君が入社していたが、白のつなぎの制服で現れた。それがよく似合う。 彼はメカマニアで、学生時代からつなぎの作業着を着ては車の下にもぐっていた。 路傍に捨ててあるような車でも動かしてしまう優れた能力の持ち主である。
 現場に行ったら、これがまた素晴らしい。 理想的な取り付け治具が出来ていて、段取りはほとんどパーフェクトである。 電極も工作物も、基準面にぴったり押し付けてクランプすれば、 位置合せが済んでしまうという模範的なものであった。 これは事例紹介として、講習会や雑誌原稿などにもずいぶん使わせてもらった。
 そんな調子だから加工も順調にいって何も問題がなく、 普通は研修に2〜3日予定するところを1日で終わってしまった。 こんな調子で増設してくれればラクでいいと思ったが、それ1台がテスト用みたいなもので、 実際の鍛造型放電加工はK鉄工やM鉄工が当社の放電加工機を設備してやるようになった。

 余談ながら前記の同級生のS君、学生時代から優秀で、 メカいじりが飯より好きというタイプだったから、何かやるだろうとは思っていたが、 ホンダとしては初の2000ccクラスの乗用車が発表になったとき、 開発担当役員として新聞に写真や談話が載った。
 ところが、彼が本当にやりたかったのは飛行機だったそうで、 本田宗一郎さんが将来は飛行機もやるというので、 本田技研(当時)に入ったとクラス会で述懐していた。 ホンダ航空の社長という名刺をもらったから、彼の夢の一端は実現したのであろう。
  そんな道楽しなければ社長にもなれたであろうにと言う声もあったが、 自分の操縦で世界の空を飛び回りたい人に社長は勤まらない。 我々より数年後輩のK氏が社長になったが、 人事でも思い切ったことをやるユニークな印象を与える会社ではある。 S君もKさんも今は退任した。

  いすず自動車は、最初に鍛造型のテスト加工をやった会社である。 たしかコンロッドだった。川崎市にある下請けの鍛造会社経由で、 銅鍛造電極と端材のテストピースが持ち込まれた。 シャンク付きの実型はトヨタが最初だったが、 端材に加工する程度のものはボツボツとやり出していた。 銅鍛造電極は鍛造会社でしかつくれないので、そんな経路を経た例は他にもいくつかある。
 いすず関係のその鍛造会社に行くと、当然ながら大型車用の大ものが多く、 当時の放電加工機では相手にされないようなものばかりで、とりあえず尻尾を巻いて帰ってきた。
 かろうじて対象になるのは、当時発売中のベレルとかベレットなる乗用車級の鍛造部品くらいである。 これらを対象にいすず自動車本体が放電加工機を導入したが、 乗用車の鍛造部品の型くらいなので台数的にはあまり伸びなかった。

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