放電加工補遺物語

− 岡崎嘉平太さんのこと[3] (2/2) −
 上海に行ったら是非行きたかったのが魯迅公園だったが、魯迅もまた日本で医学を学ぼうとわが故郷仙台の東北大の前身の医学校に留学したが、 体の病よりまずは心の病を直さんと啓蒙作家になり、世界的文豪になった。 今でも外国人留学生約58千人中約26千人(45%)が中国人留学生とのことである。 余談ながら、魯迅公園では 迅のお墓に参ったが、墓碑銘「魯迅先生の墓」は毛沢東の筆によるもので、なかなか立派なものであった。 もっとも案内役の現代中国青年は我々ほど関心もないようで、魯迅の作品はもう古典文学になってしまって、若者にはほとんど読まれなくなったと言うが、 そのへんの事情は日本でも同じである。

 岡崎さんの高校(旧制)当時、中国人留学生にも親日派と抗日派とがいて、日本国内でもよく紛争を起こし、寮に逃げ込んで来たりしたとのこと。 岡崎さんは、寮のルールを破ってでも彼等を泊めてやったりしたので中国人の皆から慕われていたと言う。
 特に、抗日派のリーダー格の?徳泊との出会いを特筆されており、彼が終戦後直ぐの前報にも書いた「報仇報恩」の草案を書いたということで感激され、 後日に探し出されて文通をされていた。当時再会をのぞんで居られたが、先に病死されてしまい、ついに果たせなかった。
 その後の書簡の中に、「中国は日本に勝つことは決まっているけれど、勝っても日本が再起できないほど苛めてはならない。 日本はわが中国の経済復興に協力してもらわなければならない国だ。」と蒋介石に意見書を書いて出しておいたとある。事実その通りになったのかも知らん。
 岡崎さんは東大から日銀に入り、ある時期ベルリンに派遣されたが、そこでもまた中国人の知り合いを増やしていった。そんなことでますます親中国派中国通となる。 昭和13年日本銀行から、揚子江流域の経済調査を命ぜられて中国に行く事になり、上海に上陸した。その後終戦の翌年昭和21年に帰国するまでのほとんどを中国で暮らすことになった。 私が上海に行ったときは、ここが岡崎さんが終戦を迎えられた上海で、同じ土を踏んでいるんだと言う思いを強くした。今は平和でいいが、終戦当時は一触即発、命の危険さえあったのだから大変だった。

  岡崎さんが上海で終戦を迎えられたときの身分は、在上海大使館事務所参事官(高等官一等)48才で、上には公使、大使が居たが、中国に詳しいと言うことで、上海地区の敗戦事務を一任され引き受けた。 大役を受けて三日三晩眠れなかったそうだが、対外的な折衝では嘘は言うまい。不利になってもいいから本当のことを言おうと決心したら、眠れるようになったとのこと。どう嘘を言うか考えるのも大変だが、 嘘がばれたらどうしようと考えるのはもっと大変だ。
 当時、日本の企業に働いていた中国人労働者に対する退職金の支払いが大変な難題だったようだが、誠意をもってあたり、時には命を張るような行動もあったが、嘘をつかなかったので、生き延びられたのかも知らん。
 岡崎嘉平太伝に、"日本に引き揚げるときのご苦労をお聞かせ下さい"と言うくだりがある。それに対して"それ程は苦労していません""僕に対しては非常に親切にしてくれたんですよ"とのこと。相手に心底好意を持ち、 親切に接していれば、相手からもその反映がある。このへんは人種を超えて同じなのではないかと思う。 瀬戸内寂聴さんの自伝にも、北京で終戦を迎えた以後の、中国人家政婦や外国人の知己から受けた親切が書いてあるが、普段親切ににしてやっていたことが跳ね返ってくるので、やっぱり普段の行いが大事なのであろう。

 閑話休題。私は、以前から中国に関心はもっていたが、訪れたのは最近のことだと言うのにはちょっと事情がある。J社では岡崎さんの関係もあって、昭和40年代の初め頃から商談と技術移転で中国に出張する用件があった。
 最初の中国行きに、一緒に仕事をしていた三水篁さん(元ソディック専務・中国室長)が大変な熱意で立候補してきた。分厚い自薦の書類をいただいたのが印象に残っている。結局三水さんに行っていただくことになり、 その後しばらくは三水さんが中国を担当したと思う。三水さんもまた中国と中国の飲食物が大変お好きだったようで、ちょっとした武勇伝も聞かせていただいた記憶がある。

 ずっと後の話であるが、ソディックの中国室に三水さんを訪ねたときのこと。「老後は中国に住もうと思って、あちこち土地を物色している。ついでにあんたの分も買って置いてやるよ」「中国人とはいったん信頼関係ができたら、 とことんいい交遊関係になるよ」とのことだった。今も中国の知己とは交遊を続けながら、悠々と絵をお書きとのことである。

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