放電加工補遺物語

− 放電加工技術の普及発展に貢献した人たち[1](1/2) −
 つい最近、虎の門の未踏加工技術協会(現未踏科学技術協会)で約十年間放電加工技術通信講座にかかわったメンバーの有志が7人ばかり集まり、 霞ヶ関の和風レストランで、食事をしながら歓談した。当時放電加工部会長であった兜電精密加工研究所社長の二村昭二さんが中心である。
 そんなきっかけから、放電加工技術研究会とその周辺の人たちについて書いてみようと思う。わが国放電加工技術の普及発展に貢献をした方々である。
 この歓談会には、元未踏加工技術センター社長で、長年、放電加工の技術者育成に多大の貢献をされ、一昨年退任された長谷川博さんが特別に参加された。 二村社長とお二人とも私のジャパックス時代の尊敬する先輩である。
 この会合を開こうと言い出したのは、昨年末まで、富士通オートメーションに在籍していた大間金重さんで、私に"幹事をやりませんか?"と電話してきた。 そんなこともあって、大間さんが今年1月ある夕方、YJSの渋谷事務所を訪ねて来られた。
 渋谷で軽く食事をしながらいろいろお話した。大間さん曰く「富士通に入社して間もなくから放電加工と放電加工技術研究会に関わり、 かつ通信講座関係に関わったことが、自分の人生にとっても非常に重要な意義があった。」と少々オーバーではないかと思うほどおっしゃる。 要するに、我々一同、放電加工技術の初期の頃に関わったお陰で、そのパイオニアとして道を切り開いたという誇りが持てた。 
 通信講座のスクーリングの日、虎の門の未踏加工技術協会に講師が集うと、昼はいつも理事長の岡崎さん、副理事長の井上さん(元ジャパックス社長)、 部会長の二村さん、事務局長の栗野さん、その他の委員の方々と会食するのであるが、こんな機会は普通ではめったに得られない。岡崎嘉平太さんと言えば、 当時、日中両国の総理とも対等にお話のできる人である。
 話題のほとんどは、国際問題や政治経済の話が多かったように思う。 大臣級の人が「○○クンは…」とか、岡崎さんの口から登場してきても全然不自然に感じませんでしたねとは大間さんの感想である。
 この霞ヶ関の懇談会で、二村さんは、岡崎さんとの出会いはもとより、「井上さんにも本当に教えてもらった。 井上さんと出会えたのが自分の人生にとって非常によかった。」と繰返しおしゃっていた。
 "岡崎嘉平太伝"を読んで、つくづく感心するのは、ご自分のお母さん、小学校、中学校時代の先生友人などからはじまって、 ご自分の人生、人格形成に影響を与えた人達との出会いを克明なほどに記憶されている。また旧制一高時代は、 勉強よりも人生を考えるときだと、お坊さんの話を聞きに行ったり、郷里の先輩を訪ねて歩いたり、ボートを漕いだりした。 人生にとって非常に貴重な期間だったと言う。
 岡崎嘉平太さんが私利私欲のない人格高潔の人とは多くの人が認めるところである。 信仰心の厚いお母さんの影響が最も大きいとは思うが、その後の多くの優れた人生の先達から受けた薫陶の賜物でもあろうかと思う。
 余談ながら、いい香りを放つことを薫と言うそうで、そのいい香りが自然に染み込んで行くのが教育の理想だと言う。良い師良い友とめぐり合い、いい影響を及ぼし合うのは人生の幸いである。
 時代が下がって、私ら若輩は、未踏加工技術協会の放電加工通信講座の講師に名を連ね、岡崎さん、井上さん、 二村さんなどの優れた先達よりの薫陶を受ける又とない良い機会を与えられたのであった。

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