放電加工補遺物語

− 岡崎嘉平太さんのこと[3] (1/2) −
 今回は岡崎嘉平太さんのライフワークと言ってもいい中国とのことを書いてみようと思う。対象が大き過ぎて、例によって非才故の舌足らずはお許しを乞う。
 
私が、初めて中国を訪れたのは、約2年前の平成10年12月のことである。当社YJSのお客さんに同行して、上海と蘇州に行った。 その発端は、そのお客さんが、中国で多く産出する希土類に興味があり、希土類磁石の中国の生産工場が見学できないものかと言う話からはじまった。
  岡崎さんが中国に頻繁に訪問されていた関係で、中国に多く産出する希土類資源の活用の話がJ社のグループに早くにもたらされた。 J社はそれで希土類磁石ををつくりサーボモータに利用した。IJRの銘板の貼ってあるのがそれである。 未踏では磁気ネックレスの試供品をつくり私もサンプルをいただいた。
  そのお客さんにはS社のワイヤ放電加工機を沢山買っていただいているので、S社の中国工場も見学しようということになり、S社上海駐在のF氏にお世話いただいた。
 彼は、中国で生まれ育ち、以前J社の社員だったが、その当時、岡崎さんの訪中には何回か随行している。「岡崎さんのお供で、ずいぶんいい思いをさせてもらいました。」 岡崎訪中団は準国賓級の扱いだから、食事でもなかなか庶民では口にできないようなものも供せられたのだそうである。
 随行して通訳したり、その後のコンタクトなどで、結構、中国要人(お名前失念)と面識ができ、その後に食事を誘ってくれる電話があったりして、岡崎さんのお陰と感激したとのことであった。

 この中国訪問で、私は岡本工作機械時代の中国人社員と上海で再会でき夕食を共にした。東京農工大のK先生のところで、放電加工の修士論文を書いた男で、私にとっては何と中国人の知己を得た最初の男である。
 ところが、時代が異なり、岡崎さんの場合は岡山中学の頃からすでに、陳範九(号は洪聲)という2年先輩の中国人留学生と知り合うのである。寄宿舎の同級生の部屋の室長をやっており、書が達者だった。 岡崎嘉平太伝に、岡崎さんが書いてもらった書「松壽風韻」の写真があるが、まことに立派なものである。岡崎さんも立派な書を書かれたが、このへんから影響を受けていたのかもしれない。 我が家にも岡崎さんの「創造」と書かれた色紙の、残念ながら真筆ならぬ複写が掛けてある。

その陳さんがとてもいい人で、祖国中国の話を色々してくれるのと、村上水軍の末裔という村上先生の東洋史が大好きで、中国と東洋の歴史への造詣を深くしていった。 何しろ教科書を暗誦するくらいやったというから、先生にも大事にされた。
 その根元にあるのは吉備の国の生んだ大先達政治家の吉備真備が中国で長く多く学んできたことや、ずっと歴史が下っては岡山の生んだ宰相犬養木堂さんらが、 中国に好意的だったことなどが織りまざっていたのは確かだと思う。
 今と違い当時は郷土意識がもっと強かった。岡山から一高や東大に入ると、郷里の先輩訪問と言うことで、有名になった人たちを訪ねて、いろいろ教えを乞うのだそうである。 自分もそうしてきたであろう先輩たちは後輩の訪問を快く受け入れたそうだが、岡崎さんの場合は先輩に犬養木堂さんのような立派な政治家が居られたし、 ほかにもいろいろアドバイスしてくれる先輩たちが居て、どれだけ力になったか分からない。
  一高には前にも書いたように170人もの中国人留学生がいたが、当時の中国からは世界各国に沢山の留学生が出ていた。 当時、西欧諸国の植民地のような中国を何とかしなければと思う革命思想の人たちが外国に学んだ。周恩来は日本に、 そのあとを継いだケ小平はフランスに留学して苦学している。

 余談ながら、私も周恩来やケ小平の伝記はそれなりに読んだ。 人格高潔と世に言われた岡崎さんが一つ年下ながら敬愛してやまなかった周恩来さんも、 もちろんすごい人で、江青たち文革4人組の前に立ちふさがった巨人である。

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