放電加工補遺物語

− 岡崎嘉平太さんのこと[2] (2/2) −
 宗教の神髄は「忘己利他」だと言うのをいろいろの本で読んだ。簡単にできることではないが、 その方向に寄っていくことはできる。岡崎さんの日中友好への尽力も、土光さんの土光臨調と言われる行政改革への答申も、 当時として私利私欲を超えた大変なご苦労であった。

 いずれも大変なことだから能力がないとできない。大を為す人はやはり恵まれた能力をもって生まれてきたのだろうと思う。 岡崎さんの秀才ぶりは天下の登竜門旧制一高の独法に、あまり勉強しないで1番で入ったと言うので明らかである。
 一高ではボートを漕いだり、中国人留学生と親しくなったり、郷土の先輩を訪ね歩いたりして、人間つくりの方に重点を置きあまり勉強しなかったとのこと。 結果、成績は中頃まで下がったが、ちょっと勉強したらすぐトップクラスに行ったので、あとは安心して勉強しないで人間つくりをしたというのが素晴らしい。わが低空飛行とは桁が違う。

 余談ながら、世の中で有名になっている人達は大概半端でなく頭がいいと感心する。佐藤栄作や岸信介など総理になった人達は、 東大生のころ、学期試験の前の日でも平気で囲碁を打っていたと言うのを読んで驚いたことがあったが、本当に頭のいい人は試験勉強なるものは要らないらしい。
 以前、博覧強記で有名な南方熊楠の伝記を読んで仰天したことがあったが、あの全集をめくると、これも同じ人間がやることかと思ってしまう。 どの本のどこにこう書いてあるという事柄で、びっしり埋め尽くされている。コンピュータ顔負けの記憶力である。 私もお世辞に「良く覚えていますね」とか言われるが、足元にも及ばない。私はただ記憶に引っかかっている分をちょっぴり書くだけのことである。

 岡崎さんは、恩師のすすめで、せっかく東大法学部(政治学科)に入ったが、官僚から政治家への道には進まなかった。 「官僚や政治家の収賄はけしからん」と言ったら「賄賂も受け取れないようでは出世の見込みがない」と言うので、そんな世界に嫌気がさしたとか。 財閥系商事会社の話もあったが、「商売して金儲けするのはしょうに合わない。」大学に残れば家族を養えないので、飯のため?先輩の紹介で日本銀行に入った。
 戦後の公職追放絡みで、池貝鉄工の再建社長になり、その関連から日本放電加工研究所(後のジャパックス)の社長にもなられたが、もともと岡崎さんの本意ではなかったようである。

  私の入社した翌32年に、岡崎さんの先輩であった日銀総裁から当時大蔵大臣の一万田さんと当時の日銀総裁から、貯蓄増強中央委員会の会長を頼まれて就任し、 倹約や貯蓄に関するお話が多くなった。今でも覚えているのはトイレットペーパーの例を引いてのお話である。
 日本人一人一人が、1日10cmトイレットペーパーを節約すると、1億人としても1日1万kmの倹約になる。数字はともかく、少しづつでも積み重なれば、 大変な資源の節約になるというわけである。全日空でも無用な電灯は消して歩かれたとお聞きした。
無駄使いをしないで貯金し、まとまったお金を有効に活かしなさいという趣旨で、放電に因んで会社に"かみなり貯金"という社内預金制度が創設され、 利子も有利で、私はかなり恩恵に預かった。給料から天引きした分とか賞与として振り込まれた分は無いものとして生活した。 岡崎さんご自身も一切引き出さなかったと聞いた。

 岡崎さんからお聞きした話は、大概我が家の話題になった。倹約と貯蓄の話は、私よりも家内の方に浸透していったかもしれない。 お蔭様で、子供の就学前に小さいながらも家をつくることができた。家内は今でも岡崎倹約貯蓄塾の優等生であると思うが、これも多分に生まれつきもあるようである。
 岡崎さんは約十年間に全国の主に農魚村他で約7百回の貯蓄をめぐる座談会などに出席したと"私の履歴書"に書いてある。 貯蓄運動の中で、消費あるいは健全な消費と、無駄や見栄すなわち浪費ないし乱費との区別をはっきりして説かなくてはならぬと痛感したとある。
  岡崎さんは、この全国的な倹約貯蓄運動を展開するにあたり、池貝鉄工は社長から会長になり、ジャパックスの社長は後輩の大林徹郎さんに託した。 大林さんは一高・東大・日銀・池貝と、岡崎さんの後を慕ってきたような人である。岡崎さんは代表権のない相談役となり、ジャパックスとの関係は比較的軽くなった。
 岡崎さんの中国関係の公式な動きは昭和37年からなので、この頃はまだ胎動期であった。

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