続・形彫り放電加工は如何にして育まれてきたのか?

佐々木和夫

8.ワイヤ放電加工機の開発(承前)と形彫り放電加工のNC化
 ワイヤ放電加工機の第1号機の出荷は、大幅な納期遅れを急かされるままに、不安を残して出荷された。出荷先は前報にも書いたが堺市の杉村製作所である。当時、関西は岡谷鋼機が総代理店をやっており、買い持ちもお願いしていたので、受注も他よりかなり早かったと思う。
 ワイヤ放電加工機の最初の検収指導員は、現YJSの福田さんである。他にNCのプログラムが組める人がまだ育っていなかった。この第1号機は、覚悟はしていたが、いろいろな問題を発生し、検収も難航した。
 何しろ機械系についても、放電加工電源とNC制御装置の組み合わせについても、経験不足で、知らないことが多かった。特に困ったのは、NC制御装置にからむトラブルである。当時の富士通のNC制御装置に関するサービスは、極端に悪かった。急激な需要増に対して、サービス要員の手当てが間に合わなかったのだろうと思う。

 現地からの要請を受けて、富士通にサービス員の派遣をお願いすると、女性担当者が台帳で見るのかパソコンで見るのか、半月先くらいの日付を平然と言うのである。トラブルが起こると、その修理は半月先ということであるから、待たされる方もたまらない。
 当時は、一般のNC工作機械でも、原因がよくわからず暴走するトラブルがあったようである。放電加工機は自らがノイズを出すのでより厄介である。この問題の究明と対策は当初からの課題ではあったが、トライアンドエラーでやるしかなかった。
 第2号機は南武線武蔵中原の富士通川崎工場への納入なので、ある意味では、放電加工電源とNC制御装置との関係を見てもらうのには都合が良い。納入機は、取り敢えずは簡単な加工に使うということなので、検収は比較的簡単に上げてもらえた。要すれば、今後のお付き合いのために1台入れてもらおうという程度であったろう。ところが間もなく、このファナックNC制御装置付きワイヤ放電加工機を根底からひっくり返すような事態が起こっていた。金子さんから井上さんへの社長交替による会社方針の転換である。新社長の井上さんは、富士通のNC制御装置を使うのをやめよと言うのである。誰も逆らえない。

 その頃たまたま、富士通と池貝鉄工との間のソフトをめぐるトラブルが、新聞沙汰にまでなっていた。両者協力して開発した旋盤加工のソフトが、他社にもリークしていると言うのである。契約上か、道義上か忘れたが、控訴するとかしないとかの騒ぎだったように思う。業務上で知り得た知識を流用するなとか言っても、頭脳から取出してしまうわけにはいかないから、どこまでが流用と判定するのか、特許請求範囲のような基準になるものがないから難しいと思う。
 池貝鉄工と同じことをやれば同じことが起こりかねない。将来、自社で得たワイヤ放電加工のノウハウやデータを、無防備な状態で社外に出すことは、井上社長の意に沿わないものであった。生産設備を一切持たず、頭脳集団とか言って、知的所有権を主張する会社としてはあるいは当然なことかも知れない。

 研究所では代替の制御装置と自動プログラミング装置およびソフトウエアの開発が急ピッチですすめられた。自動プロとそのソフトに重点を置いたオフライン方式のもので、プログラミング方式はJAPTと名付けられた。
 結果的には何台か納めたファナック制御装置は、富士通川崎工場を除き全て回収し、この方式のものと交換した。前述の杉村製作所も例外ではなかった。交換すればNC装置のメンテも自力でやれる。自動プロのコンピュータはヒューレットパッカード(HP)のものなので、その部分だけは別扱いである。
 その後の話ではあるが、杉村製作所の杉村社長はこのHPを駆使して、我々より先にプレス金型のCAD/CAMのソフトをつくり上げてしまった。サムシステムと名付けられ、後に岡谷鋼機を総代理店にして販売されたものである。この一件が、岡谷鋼機のジャパックス関西総代理店を解消する一因になった。このソフトは岡谷鋼機を通してジャパックスへの提携話のごときものがあったが、応じなかったのである。後に両社がCAD/CAMで競合するようなことになった。
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