続・形彫り放電加工は如何にして育まれてきたのか?

佐々木和夫

7.ワイヤ放電加工機の開発の続き
 先ずは本体を造ろうと言うことで、その要員が割り振られた。機械系の責任者は、当時技術部長の豊島さんで、城さんが担当して進める一方、加工電源と制御およびソフトなどについては、渋谷さん、矢部さん、毛利さん、福田さんなどが関わった。これの開発関係は、溝の口とは別のエリアで進められたので詳しい経緯は知らない。いずれにしてもまだワイヤ放電加工機に関しての知識が大幅に不足していた。
 ともかく記念すべき第1号試作機が作られたが、この試作機は残念ながら失敗作であったと思う。オーソドックスなXY座標テーブル方式とすれば無難だったが、片方の軸をワイヤ側の移動としたため、摺動面とワイヤの距離が遠過ぎ誤差が拡大されて精度が出なかった。もっともこれは機構的な問題のみでなく製作上の問題があったと思う。

 当時、社内的には何か他と変わったことをしてみようという風潮があり、普通のことをやると代わり映えしないとクレームが付いたりした。その考え方は技術の積み上げに対して、ときに有害な場合もあり、せっかく投資して築いた技術を無駄にすることもあった。お金もさることながら時間が勿体ない。結局、次の試作機は、ごく普通のXYテーブル方式にしたのである。
 この試作機は、溝の口工場に運び込まれたので、我々も時々見学する機会があったが、まだ、安定して長時間加工できる機械ではなかった。短絡とか断線が頻繁に起こるのである。それもそのはず、放電加工では短絡したらバックするのが常識であるが、それも特許で押さえられている。ワイヤの進行した軌跡をバックする「軌跡バック」なるものが外国の特許になっていた。
 したがって、試作機は定速送りであり、短絡したらストップするようになっているが、それでは短絡の解消にはならないから、ワイヤが短絡電流で切れるか、そのままじっとしているかである。じっとしているワイヤを鉛筆などで叩いてやるとまた放電を始めるのであるが、次なる短絡が起こるのは時間の問題であった。

 もっとも、短絡しないように安全サイドでゆっくり送ってやればある程度は継続するが、より速い速度を求めるのが人間の心理である。バック制御ができないのは問題であった。仕方がないから人間がついていて、短絡したら鉛筆でワイヤを叩きながら加工していたこともある。
 これを自動的にしようとしたのが、後にできた超音波によりワイヤに振動を与える方法で、それ用の装置をクリアカットなどと称した。特許対策のための苦肉の策であるが、加工速度が自社比約2倍になったので、それなりのPR効果はあった。少し後になっての話ではある。
 次なるステップとして、ともかく商品化を前提にした機械を造らねばならない。宮野技師の基本設計で、製作を浜井産業にお願いした。当初のものは剛性が不足していたが、順次補強され改良されていった。

 この初期の製品のNC制御には富士通のファナックが使われた。富士通はすぐ近くで、当時、NC制御関係の部長だった稲葉さんが当時の金子社長を何回か訪ねてきていた。もちろんワイヤ放電加工機のNC制御にファナックを使ってもらうためである。池貝鉄工も使っていることでもあり、特に反対する理由もなかった。しかし、これは社長交替後にひと問題になった。
 メカは浜井産業で製作中であるが、併行して営業活動も行われており、受注もぼつぼつは入ってきていた。最初の数台の出荷は何故か私がみるようになったが、多分何台かは専用機か特別仕様機としての扱いだったからだと思う。ジャパックスで初めて加工テストや出荷検査を実際にやったのは、私の下に居てその後ソデイックに入り、今は退職した南沢氏であった。NCプログラミング関係は現YJSの福田氏が担当した。
 取扱い説明書を作らねばならないが、定速送りのワイヤ放電加工機は結構データ採りが大変だった。断線限界を見付けねばならないから、速度を上げていっては、ワイヤが切れるところまで加工する。ワイヤをつないでいる時間の方が多かったかも知らん。
 何とか出荷した1号機が大阪は堺市の杉村製作所で、2号機はすぐ近くの富士通川崎工場であった。そして、このいずれもが後々ジャパックスに大きな影響を与えることになろうとは、神ならぬ身の知る由もない。

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