続・形彫り放電加工は如何にして育まれてきたのか?

佐々木和夫

3.QC電源からUF電源へ(2) UF電源プロジェクトのこと
 ポストQC電源を徹底評価し、フィードバックするためのプロジェクトチームが出来た。ほぼ専任的にやるのは毛利主任(当時、現Mテック)、加藤夫三男さん(現KHS部長)、福田常夫さん(現YJS部長)と私の4人で、他に、渋谷さんや、宮城さん(現サクセル)などが関わりを持った。
 試作電源3台を24時間フルに動かして、火急的速やかにデータを採り、問題点を摘出フィードバックして、商品化を急ごうと言うのである。このプロジェクトには、営業企画の協力もあり、役員陣の関心も高かった。
 勿論、開発製造会社であるメップとは、常に密接な情報交換を行い、フィードバックー改良ー再評価をやっていかねばならない。広い意味では同じプロジェクトのメンバーであると言える。

 この新電源をテストするのに、試作工場内に間仕切りした別室が作られた。未発表製品を、社外の人に見えないようにする目隠しである。徹底して外部と遮断したため、大きめの暗室ができたようなもので、内部に独特な雰囲気をつくりだした。
 この部屋の中に、新電源を装備した放電加工機を3台設置し、24時間フル稼働を目標としたので、換気扇はつけてあったが、加工で発生するガスや臭気が抜け切れないのも、この部屋を特徴づけることになったかも知れない。慣れない人には息苦しい。 以前にも書いたように、当時の放電加工機は、危険防止のため、原則としては、人間の監視が欠かせなかったので、デスクも室内に持ち込み、デスクワークもやるようにしたので、私などはこの中に居る時間が結構長かった。
 24時間稼働のためのローテーションをどう組んだかは覚えていないが、1週間に3回朝帰りしたことは覚えている。原稿を催促されて、機械を監視しながら3夜かかって書き上げたりしたから記憶に残っている。

 朝、プロジェクトの誰かが出勤して来たら、申し送りして帰り、午前中寝て遅めの昼飯を食べたら出て来ていたようだから、会社に16、7時間詰めていたよ うで、家には寝に帰るだけの生活が約4か月間続いた。
 その間、短眠(短時間睡眠)には慣れているはずの私が感心するほど、このプロジェクトメンバーはタフであった。当然ながら、残業時間は軽く月100時間は越えた。私はとっくに残業手当てはもらえなくなっていたから関係ないが、もらえれば本給に匹敵するはずである。後日談であるが、毛利さんも間もなく残業手当が貰えなくなり、大幅減収である。後に誰か管理職昇任を拒否した人も居て問題になったが、気持ちは分かる。
 加藤さんは今でも当時の資料を大切に保存してくれている貴重な存在で、当時はまだ2年生である。福田さんは入社して直ぐに、このプロジェクトに放り込まれたから、かなり驚いたようで、会社とは大変なとこだと思ったかも知れない。しかし、人間一度何か大変な経験をして置くと、少々のことでは驚かなくなるから良い点もある。

 私事で余談ながら、私などは食べざかりの頃、戦後の食料難を経験し、生きるために雑草でも虫でも何でも食べ、栄養失調で寝るなどちょっと大変な思いもしたので、人間、食べるだけならどうにでもなると言うようなものが、心の支えになってきた。
 もう少し早く生まれた軍隊経験者は、もっともっと過酷な経験もあったので、精神的にはタフになる。「戦場でどうせ1回死んだ人間だ」なんて言う人の強いこと。地獄から這い戻ってきたような人が、少々のことで驚くはずがない。
 このプロジェクトでは、ともかく大量のデータを採ることと、各種応用加工での従来電源との対比をやることが課題であり、急ぐので効率良くやることが望まれる。加工方法や測定方法を標準化し、特にオーバーカットの測定は専用のリミットゲージなど作って能率よく行われるようになった。

 この電源の特徴の一つは、簡単に言えば加工能率の向上である。約300 ボルトの高電圧パルスを付加したのも効果を上げた。今までは安全優先の考え方だったが、今回のは安全もさることながら、加工性能を優先した。
 そこで、新電源の名称はUFにしたいと営業企画で相談したらしく、担当役員格の金子常務(当時・故人)から言ってきた。ウルトラファーストとか、ウルトラファインとかの意味である。うそのUになっては困る。
 井上副社長(当時)が、長津田の研究所から出ないので、金子さんが実質的に、このプロジェクトの担当役員格である。少し前、息子さんが入社し、営業企画に籍を置いたので、情報はスムーズに流れ込んでいるようである。

 このプロジェクトは、常務が終始力を入れていたので、研究所方面からの風当たりは少し和らいだように思う。力を持っている人がプロジェクトを推進すると、いろいろスムーズに行くようである。息子には皆少々気を使うところがあったが、やむを得ない。
 この電源のことを少し述べて置くと、この電源は、加工条件設定を押しボタンによったので、押しボタン方式と呼ばれた。押しボタンはA群、B群と、それぞれ標準で9個づつある。A群では、電極、工作物の材質と電極消耗率、B群では加工面粗さを設定するようになっており、すべての組み合わせでは9×9=81の組み合わせとなる。QC電源の約2倍となるが、特殊な工作物材質なども考慮すると不足である。
 そこで、A群の押しボタン二つをユーザーズエリアとしてフリーにした。個々のユーザーさんの必要とする加工条件をオーダーに応じて入れましょうと言うのである。人員を少しは増やしたとは言え、まだ10人前後の会社が対応し切れるかどうか懸念はあったが、思い切った決定ではある。

 それだけに、この電源にかける意気込みはかなりのものだったように思う。何しろ、昭和三十年代で独走状態は終わり、完全な競合の状態に入っており、しかも商品力では劣勢ぎみなのである。何とか挽回しようとこのUF電源に賭けていた。
 加工性能は格段に向上し、ユーザーのサンプル加工も始めたら、こんなことがあった。兵庫県のある有力ユーザのテスト加工を立ち会いでやった。まだ未発表であるが、例外的な協力ユ−ザ−である。粉末焼結の金型を加工したところ、信じられないような安定加工で、QC電源の1/3くらいの加工時間で終了した。
 そのユーザーは、すっかり惚れ込んで、実際に使用した、そのものズバリの電源を直ぐにでも欲しいと言い出した。他のUF電源でも、同じように出来るとは、とても信じられないのである。

 ともかく、このプロジェクトでは、限られた時間に、徹底的にいろいろな加工をやったが、思いがけない問題点も見付かったりして成果を上げた。問題点解決はメップ側でやったが、そのためのテスト加工も、連日24時間体制に近いものがあったように思う。
 販売前に、これだけ徹底的に加工テストをやった電源は、後にも先にもない。QC電源のトラブル多発を反省しての、当時の金子常務他の営業担当の意思を反映してのことであると思うが、その後のV電源以降のユーザー先でのトラブルを考えたら正解であった。
 このプロジェクトの成果で、加工上の問題はほとんど出尽くしたが、ハード上のトラブルはまだ多かった。ハード上のトラブル発生率をどのへんで見切るか、時間との関係で悩ましい問題であった。ゲート板なるものの故障が筆頭で、なれない高電圧パルスの付加なども故障を増やしていたかと思う。

 そのうち、金子当時常務から妥協案が出された。すなわち、「フィールドでのトラブルもメップが責任を持って対処するから、ジャパックス側の技術者は心配しなくて良い」と言うのである。これでは沈黙せざるを得ない。その代償として、メップからの電源の購入価格を5%上げると言うのである。当時のトラブル状況からして5%では受ける側が厳しかったはずである。
 良くも悪くも、担当役員格の決断である。それにしても、新商品の評価改良にこれだけ力を入れたプロジェクトはこれが最後となった。後日談であるが、ポストUFが出来る前に、大林社長が病死され、金子社長に替わったが、間もなく、社長を追われる事件があって、経営者が不在になってしまった。その後は井上さんの言いなりに出来たV電源の評価は散々で衰退への道を歩み始める。
 もっとも、この時点では2〜3年後に起こる事変を予知出来るはずもなく、少々トラブルは多いが、加工性能の良い電源に大いに期待していたのである。しかし、順風満帆だと思った状況が崩れ去るのに3年とは掛らなかった。

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