続・形彫り放電加工は如何にして育まれてきたのか?

佐々木和夫

2.QC電源からUF電源へ(1) QC電源から思う出すこと
 最初のトランジスタ電源QCは、ジャパックス社の業績回復に大いに貢献したが、商品化を急いだせいもあって、問題点も多かった。トランジスタの破損が多いことは前号にも書いた。
 これを改良すると言っても、大改造せざるを得ない事情があり、そこまでやるのなら、あれもこれもと言うことになり、結局はモデルチェンジすることになったように思う。余談ながら、こんな原稿でも、直したいところが増えてくると頭から書き直したくなり、今もそれを始めたところである。その時に思い出すことしだいで、かなり違うものになってくる。
 ともかく当時、QC電源は現商品であるから、販売を止めるわけにはいかない。問題点は承知の上で出荷は続けていたが、そのうち、ちょっとした技術力のある会社では、自分で修理するようになった。

 「メーカーに電話し、サービス員が来るまで機械を止めるのは勿体ない。自分で直すからパーツだけ余分に置いておけ!」と言うわけである。愛知県のD特殊鋼など、いつもトランジスタを笊に一杯は確保していた。大型の鍛造型を長時間荒加工するから、一番過酷な使い方になり、トランジスタがもたないのである。
 ついでだから、少し寄り道して、D特殊鋼の大型放電加工機にについて触れてみましょう。この放電加工機は、車軸の型を放電加工するための横長約3mほどの加工槽をもつ機械で、加工ヘッドが二つ付いているのが特徴であった。鍛造型のセンターから左右を別々のヘッドで独立して加工しようという発想である。
 テーブルを固定式にして、ベッド内部を加工液貯蔵槽にしたり、加工槽の前蓋を地面下の溝に落としこめるようにしたり、いろいろ苦心の作である。消防法の関係で、加工液は2千リッター以内に何とか収めたが、ワークが小さいときは、ダミーを沈めないと液面の高さが不足した。

 なお当時、この機械を担当したのは、会社で1番ノッポの手柴君(現青が島村役場・産業観光担当)で、電気系は栗原さん(旧姓高橋、現ファナック)であった。まったく余談ながら、手柴君が勤める役場の住所が、「青が島村無番地」だそうで、言い方がちょっと面白い。八丈島から船ではさらに2時間半。来島したら美味しい魚と無農薬「青ケ島焼酎」で熱烈歓迎するそうである。そのうち誰か行きましょうか?
 この機械2台の製作は、T製機にお願いしたが、松山工場でつくると言うので、思いがけず、文豪漱石の「坊っちゃん」ゆかりの地に、何回か足を運ぶことになった。松山では結構いろいろ面白いこともあった。本筋から離れていくので、書こうか書くまいか迷ってしまうが、一つだけ書くことにしましょう。
 この機械の工場立会い日も迫って、最後の追い込みに前記二人のコンビが松山に泊まり込んだ。私も状況確認がてらの打ち合わせと、陣中見舞いのために日曜日を利用して松山に飛んだ。勿論、到着時間も連絡し、晩飯を一緒に食べることにしていた。しかるに、宿に居ないどころか、宿の娘さんとその友達を誘ってドライブに行ったとは何たることか。しかも何のメッセージも残していないのである。

 腹が立つけど仕方がない。携帯電話もポケベルもない時代である。松山市の数ある店から、良さそうな居酒屋を一つ選んで、カウンタで一人淋しく飲んでいた。かなり酔いも回り、帰ろうとしたところに、何と四人連れで入って来たのである。
 松山市がそう大きくはないとは言っても、伊予松山五万石の城下町、「溝の口」よりは大きい(失礼)。もう少し遅かったら帰っていただろうし、奇遇と言える。女性たちの手前、文句も言いにくく、賑やかに飲み直しとはなった。出来上がっているのは私だけ、ハマチか何かの活きづくりなど横目に、酔い潰れてしまったようであったが、財布の方は予定以上に軽くなったのではなかったかと思う。
 話し戻って、この機械2台に、電極製作用の放電圧力成形装置も付いて、総額約6千万円の商売。月商1億円ちょっとの時代には大型受注ではある。営業担当は当初は名古屋初代所長の小林さんだったと思うが、納入の頃は2代目の石坂所長に替わっていたのではなかったかと思う。
 電極つくりに放電圧力成形装置と言うのは、かなり思い切ったもので、新しいものを売りたがり屋のKさんでないとリスクが大きくてなかなか踏み切れない。小さいサンプルは、いろいろ作っていたが、この電極、車軸2mの半分としても1mはある。それを厚み3mmくらいの銅板を放電の圧力で成形して電極をつくろうと言うのである。

 この原理は、火薬による爆発成形に似ているが、火薬より放電圧力の方が安全だというわけである。そこそこの電極はなんとか出来たが、放電加工中に熱変形を起こすのには困ってしまった。いろいろとやったが、結局は荒加工には使えず、中加工以下にしか使えないということになった。
 以前、放電圧力成形の話をしたら、放電加工にもそんなに大きい力が働くのかと誤解されそうになったが、放電圧力発生装置は、電圧もコンデンサ容量も桁違いに大きく、放電エネルギが何桁も違うのである。
 この2ヘッド方式放電加工機、左右の加工終了時刻が一致することは極めてまれで、左右でかなりの時間差が生ずることがあり、クレームが付いた。ユーザーの希望としては、早い方に合わせて調整して欲しいというわけであるが、まったく一致させるることは至難の技である。いろいろ調整しても、左右いずれかが早くなり、抜きつ抜かれつするから担当者も参ってしまった。今ならヘッド間の情報のやり取りで合わせることも出来そうである。

 こんな機械だから、トランジスタが破損しても速やかに修理ができないと困るのである。左右独立しているから、片方が止って、鍛造型の右半分か左半分だけ先に出来ても何の役にも立たない。それでは2ヘッド方式は失敗だったかと言うと、必ずしもそうとは言えない。2mからある車軸の型の加工長さ寸法を±0.05以内の精度に抑えろと言う要求なので、銅電極の伸びをセンターで調整しようと言うのである。もっとも後年、電極はグラファイトの削り出しに変わったから、伸びる心配はあまりなくなった。
 ところで、このシステムは上記のような問題点山積で、検収完了まで延々と掛かった。主力メンバーが張り付くわけにもいかないので、早稲田の工学部を出たばかりのY君に勉強も兼ねて担当してもらった。優秀でよくやってくれたが、惜しいかな何とか目途が付いたのを機会に辞めてしまった。知多半島にばかり居たたので、婚約者(?)からクレームが付いたのが理由らしかった。
 思いがけず、長い寄り道になったが、先を急ぐこともない。QC電源と言うと、後日談もいろいろあって、この1件が真っ先に思い出される。それに納入時の光景も異様であった。体育館の数倍もあろうかという屋根が掛ったばかりの工場に真っ先に搬入したのであったが、方々で、まだ据付のための土木工事が残っており、まだ工場と言える環境ではなかった。我々の車も機械の近くに横づけして、ミニ事務所である。春まだ浅く、寒いときは石油缶で焚き火をした。こんな設置光景はさすがに珍しく、印象に残った。

閑話休題
この6月8日に、この連載にも度々ご登場いただいている元ジャパックス社長故岡崎嘉平太さんのお墓参りに行った。と言ってもわざわざ行くには遠すぎるので、岡山県は加茂川町吉備高原のオーニック(ONIK)(吉備NCの関係会社)をお訪ねしたとき、難波社長にご案内いただいたのである。時間が経つと印象が薄れそうなので、早めに書いて置くとしましょう。
 岡崎さんのお墓は、吉備高原都市の隣町、賀陽町のご生家跡の地続きにあった。大和山(おおわさ)と言う山の麓である。その大和山にも岡崎さんの「望郷の碑」があると言うので、ここにも連れて行っていただいた。この山は、岡崎さんの書かれたものに「ふるさとの山に向かいて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」と啄木の歌を引かれたふるさとのシンボル的存在である。

 墓所はお寺ではなく、生家のすぐそばにあった。そこが想い出の地であり、先祖のお墓があるからかと思う。普通の墓石とは違い、何十トンあるのか、上から見れば真四角な、見上げるごとき、かなり量感のあるお墓であった。
 なお著書によると、ご生家は、岡崎さんが小学校1年生のときに火事になり、父親の事業も失敗して、霜柱を踏んで総社市の方に移住されたそうだから、物心ついてわずかしか住んでいなかった故郷ではある。それでも、望郷の念は、祖先の地、出生の地の方に強いようで、人間そういうものかも知れない。可能であれば母の胎内に戻りたいと願うのかも知れない。

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