続・形彫り放電加工は如何にして育まれてきたのか?

佐々木和夫

1.研究所の分離独立と電源開発製造会社の独立
 溝の口池貝鉄工の塀の中から、東京PMセンターとか、大阪、名古屋の営業所はすでに抜け出ていたが、続いて研究所も抜け出すこととなった。井上副社長(当時)率いる研究所の分離独立である。組合活動に影響されることなく、研究、開発をやろうというのである。
 研究所の建設用地として選ばれたのは、東名高速道路横浜インター近くの横浜市緑区長津田町である。今でこそ開けているが、当時は林と畑に囲まれた一画であった。あたかも別荘地を切り開くような感覚であったように思う。

 車があれば横浜インターから数分で行けるので、あまり不便ではないが、電車での最寄り駅は田園都市線と横浜線の長津田駅で、タクシーで約10分はかかった。今は横浜線に十日市場駅が出来てこれが最寄り駅となったが、ここからでも歩くのは大変である。
 この土地への研究所の着工は昭和44年だったと思う。45年に完成したときは、見にいったと思うが確かな記憶はない。いずれにしてもその後、研究所で定例技術会議と称するミーティングをやることになったので、否応なしに毎週行くことになった。会議は火曜日と決められていた。
 この研究所は「井上ジャパックス研究所」と名付けられ、略称を「IJR」と称した。研究、開発、特許、業務の4 部構成ではなかったかと思う。研究所の建物の中で特に目立つのは、一点豪華主義と言わんばかりの林に面した1 号応接室と窓のない幾つかの研究実験室などであった。

 林に面した窓には、鳥たちの激突死がかなりあったと言うから、いかに自然が残っていたかがわかるが、今も残る剥製の飾り物は哀れな鳥たちのものだそうである。
 窓のない部屋は、研究、開発に専念できるように作ったということだが、あまり入りたくも居たくもなかった。大きい部屋ならあまり圧迫感もないが、窓一つない小さい部屋は独房のようで、人を狂わせそうである。
 ともあれ、そのIJRでやる会議には毎週通った。言うなれば御前会議である。会議というよりも報告会と言う方が妥当かも知れない。この会に出席すれば、何等かの話題か、提案などを順番で発言しなければならないが、特に何もないときは出席が苦痛だった。「1 週間に何もないことはないでしょう?」研究所側の出席者は、何かアドバイスするのが仕事だから何もないと困るのである。

 IJRは、独立採算を建て前にするシンクタンクとして、ジャパックスからのインカムの比率を下げて行き、50%を切りたいというような構想であった。当時、民間シンクタンクが経営として成り立ち得るか? マスコミからも注目され報道された。
 ジャパックス創業者の一人である岡崎嘉平太さんの「日本は資源のない国だから、頭脳を売って世界の資源を求める」の一つの実験工房みたいなものである。研究、開発の受託や、調査、分析、技術相談などの受託に乗り出していった。
 しかし、一方には、大学や公的機関の頭脳集団がある。これと太刀打ちして行くのは容易でない。民間で受託研究所開発でペイしようとしたら、すべて委託者に費用負担してもらわねばならず、しかも研究開発にはリスクが付き物である。委託した人が何の成果も得られなくても、費用の負担は残る。そして成功するよりも、しない場合の方が多いのである。

 IJRの場合は、ジャパックスの特許使用料が、経営の基礎資金であった。ジャパックスの売り上げにあたるパーセンテージを掛けたものである。それに前述のミーティングなども、技術コンサルタント料として定期的な収入になる。
 研究所が長津田町に移転したので、その開発室に所属していた、現ソディック社長の古川さんを実質的なリーダとする。EDM電源開発グループも共に移転していった。しかし、電源をいろいろ開発試作するための工場に相当するスペースはIJRでは充分ではなかった。
 放電加工で、最も重要な加工電源を担当するグループが充分な場所がなく、軽視されては問題である。そんなこんなで別会社を作って、IJRの外に出ることになった。その詳細は知らないが、ともかく古川さんが新しく起こす会社の申請に必要な事業計画案を何回も何回も書き直していたようであった。

 諸手続きも終わって、めでたく電源開発製造会社が発足することになった。当時は港北区、今は都築区の池辺長が発足の地である。会社名はメップ(MEP)株式会社とし、社長には銀行からの人を迎えた。資金調達などで技術社をわづらわせないようにしようという配慮のようである。
 この会社では、QC電源を製造しながら次なる電源の開発が始まっていた。QC電源にはトランジスタが破損しやすいという欠陥があって、早めにモデルチェンジしようという機運があった。そうなるとこのグループ精力的である。いろいろな案が提示され、結論的には押しボタン方式と決まった。
 ところで、結果的には研究所を池貝の塀の中から押し出すようになった労働組合は、会社側の対応の作用反作用か、活動が徐々にエスカレートしていって、我々中間管理職を悩ませた。両者の言い分もわからんでもないが、もう少し何とかすることは出来たであろうと思う。

 今更、だれが悪いと言ってみても仕方がないが、ここに、例によって故岡崎嘉平太さんの言葉を置いておこう。「私はかねてから人間には信と愛が必要だと思っています。たて系の信とよこ系の愛、それが織り成す社会こそ真に美しいものだと思います。私は何度か会社の経営で苦労しましたが、池貝鉄工ではとくに思い出深いものがあります。戦後、池貝鉄工の労働運動はきわめて激しく、それが会社の危機にまで発展しているときに私が立て直しを頼まれたのでした。ですから本当に命がけでした。命がけだから皆のなかに飛び込んでやろうという気持ちでした。(後略)」
 池貝鉄工の労働運動も、私が入った頃は、激しさを少しは感じていたと思うが、元全池貝の組合委員長もやったという私の酒のみ先輩になったTさんは、当時いつも短刀を懐にしていたというから、文字通りの命がけだった。
 ジャパックスの労働運動と、その対応には残念ながら信と愛が欠け過ぎた。信とか愛とかは両方から支えないと成り立たないもののようだから、一方通行の信頼関係とか愛情関係とかはないように思うのだが如何でしょう。信頼しないで信頼されようというのは虫が良すぎる。裏読みばかりが多かった。

 だいぶ先になって組合活動がエスカレートして行ったとき、経営者が社員でもある組合役員を親の敵のように言うので、少し反発するようなことを言ったら、私まで、敵の片割れのように苛めにあった。あまりこんな事を書くと読者に嫌われるので、いい加減にして止めましょう。
 ひとの悪口陰口を聞かされるのはあまり気分の良いものではない。それなのに、これでもか、これでもかと聞かせる人がいるのには閉口する。この前ジャパックスの初期時代を知るOBが集まったときにも、飲んでそんな話に及ぼうとしたが、「私には嫌いな人はいない」ソディック古川社長の言で話題転換になった。
 話を戻すと、ポストQC電源は、トランジスタ電源の最初のモデルチェンジとして、極力今までわかっている問題点をカバーしようとし、かなり繰り上げた。「操作を易しく」というQC電源の考え方を延長するものと、オンタイム、オフタイム、ピーク電流値を任意に決められるものとの2 方式を商品化することとなった。

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