続・形彫り放電加工は如何にして育まれてきたのか?

佐々木和夫

4.UF電源プロジェクトとその後のこと
 最近ひょんなことで、当時のプロジェクトメンバーの一人に出会った。プロジェクト周辺について、もう少し書くことを期待しているように思えた。しからば、記憶にあるだけを、もう少しだけしぼり出してみましょう。
 このプロジェクトは、前にも書いたように、電源開発製造会社として独立したメップとの共同的プロジェクトである。ジャパックスで、24時間体制でテストした情報は、逐一メップ側にフィードバックしていった。

 メップ側は、準通常体制だが、結構誰かしらは半徹夜でやっていた。夜中に問題点が出たら、常識的には明朝に連絡して対処してもらうと考えるのだが、急ぎの場合は時刻かまわずに連絡をとった。現物を見てもらった方が分りやすいような場合は、連絡の上、夜中にでもかまわず出かけて行ったこともある。
 20年以上も昔のことを、記憶にのみよろうとすると、何かインパクトのあった出来事が手掛かりになる。夜中にメップへ出掛けて行った記憶は、寝ぼけて第三京浜下の一方通行路を逆行したことで忘れられない。真っ正面からのライトとけたたましい警笛で目が覚めた。
 メップ側のメンバーは、現ソデイック社長の古川さんをリーダーとして、サブリーダーの鈴木さんに、関さん、田村さん、山田(旧姓玉川)さん、池永さん、正田さんなどなどのメンバーである。平均年齢では20代の若さであった。
 その中で、当時、特に加工データの採取を担当していたのは正田さんで、表にまとめたものを次々と代表して持ってきてくれたが、その早さは、今までの常識を覆すのに充分なものであった。
 この電源は、ユーザーに親切にしようと、オーバーカットや、加工面の粗さをパネルボードに表示するようにしたので、データをしっかり採らないと、商品が完成しない。親切ついでに、電極低消耗条件では、入口側オーバーカット、高消耗条件では出口側オーバーカットを表示するとか、至れり尽くせりの配慮である。
 表面パネルへの表示は、他に[G]マーク、[T]マークと言うミニランプがあり、トラブル時の電話診断に役に立った。ゲート回路の故障とかトランジスタの故障とかの診断である。

 余談である、ある放電加工機のオペレーターで、このローマ字が読めないと言う嘘のような話があった。後年、たまたま私が受け取ったクレームの電話でのことである。「ポストのマークのような方でなく、丸っこい方のが灯いています。」意味は分かったが、何か考えさせられた。こういう人も居ることを忘れてはいけないのであった。

 加工結果のデータを電源パネルに表示する試みは、勿論初めてのことであったが、いい加減な数字も出せないので、真面目にデータを採っていたと思うが、そんなデータの積み上げが、後のパルス条件と加工結果の実験式への引き金になっていったと思う。
 ともかく、QC電源では、営業も他社と戦えなくなってきていたので、1日でも早く新電源を出したいがための、この非常時体制である。メップ側も、ポストQCを早く世に出したいのはやまやまである。それに掛けた努力は並大抵のものではなかった。
 このような非常時体制を数か月継続するのは、結構身体的にも大変である。今回のプロジェクトメンバーは、比較的それによく耐えていた。ひとよりは多少強いと自認していた私の方が負けそうなのである。

 私ごとで恐縮だが、寝不足に耐えるため、喫煙を再開した。社内禁煙ムードに沿って、2年間ほど禁煙していたのであるが、眠気覚ましにまた少しづつ喫い始めてしまった。寝ぼけた車で事故を起こすよりはましである。
 またも余談で恐縮。それ以後二十数年間煙草を喫い続けてきたが、今年早々風邪をひいて煙草がまずくなり、また止めた。誰かさんが、禁煙の回数なら誰にも負けないとか威張っていたが、私は2回で終りにしたい。もう無理をする必要性もあまりないように思う。
 煙草を喫う、喫はないは、勿論個人の自由であるが、マナ−の悪い人には辟易する。つい最近も、若い女性が電車から降りるやいなや、煙草に火を付けた。雑踏のなかでは、危なくてはらはらする。通勤路上に散乱する吸い殻もすごい。渋谷の歩道橋で、上ってから下りるまで、念のため数えてみたら約40個捨ててあった。こんな光景も煙草を止める方向に作用したようである。

 話し戻って、このプロジェクトは,せいぜい3,4か月のものであったが、協力体制がうまくいったと言うことで、特別に印象深い。後年、いろいろ新製品などでうまくいかないことがあったが、その度にこのプロジェクトのパワフルで迅速な対処法が思いい出されたものである。

 UF電源の出荷ががぼつぼつ始まったが、ハードのトラブルも入ってくるので、台数に比例して、メップの方は大忙しになっていった。実を言うと、当時の担当常務が新開発電源のサービスをメップに委託したのは、労働組合対策と言う別の側面もあったと思う。サービス業務の外部委託である。
 現実に、池貝鉄工労働組合の影響力もあってか、出張拒否とか残業拒否とかで、サービス対応にもかなり問題が発生した。管理職の連中が追っとり刀で、ユーザーに行くこともしばしば起こった。私自身も熊本城近くのビジネスホテルで、ジングルベルを聞き、長崎の三菱重工で「良いお年を!」と挨拶して、検収サービス旅行の帰路についたことが思い出される。
 経営者側にも組合側にも、いろいろ言い分はあったろうが、この時期、相当に、企業の信用に対するダメージを受けたと思う。ボデイに利いた。

 このプロジェクトの翌年の昭和48年、こんな状況のなかで、現役社長の急死という事変が起こった。大林社長にもずいぶんストレスがかかったのでしょうが、立場上お酒も飲み過ぎたようである。
 大林さんは、一高、東大、日銀、池貝、ジャパックスと、岡崎嘉平太さんの後を慕い、酒豪であることまでも一緒だったが、肝臓の方は少し弱かったようである。それなのにお酒が沢山あり過ぎた。自由ヶ丘の大林邸にも数回はお訪ねしたが、とにかく、置いてある酒の量が桁違いに多い。
 お酒好きを皆知ってるので、世界中の珍しそうな酒が、大きな棚いっぱいに集まっている。私も2度目かの海外出張のとき、わざわざの壮行会?でご馳走になったお礼にと、ナポレオンか何か1本お土産に持って行ったように思うが、酒が酒を呼び、集まるところには集まる。
 奥さんもお酒が好きで強かったようだから、ブレーキをかける人も居なかったようで、飲み放題である。直接聞いた話であるが、一晩に友達と3人でビール56本とかいうのがある。そんな量は、実際に目の前で飲んだ人を見るまでは信じられなかった。
 私が見た人は、自分の空けた瓶をそのままカウンターに確保しておくので、数えれば分かるようになっている。20本近く並ぶと、さすが壮観ではある。大阪時代に、ある飲み屋で知り合った人だが、その後の消息を聞いたら肝硬変で亡くなったとのこと。まるでビール自殺である。

 大林社長の死は、還暦を目前にした59才であった。前後して亡くなったユーザーの現役社長が居り、やはり59才で、酒の飲み過ぎによる肝臓病であった。病院のベッドの枕の下から、厳禁の酒瓶が出てきたと言う話を聞いたが、入手経路を皆で不思議がった。「酒が飲めなきゃ死んだ方がまし」とか言ってはいたが、勝手なものである。
 東芝タンガロイを脱サラしてはじめた町工場に放電加工機を導入して、超硬合金放電加工の先駆者として、それなりに成功したまでは良いが、お金が出来て、お酒を飲む機会が増えたのが命取りになった。
 お二人とも良い体格だったが、旨いものを食べ、お酒を飲み放題では堪らない。おまけに送り迎えつきだから運動しない。悪いことが重なって、糖尿病や肝臓病になるのも簡単なものである。命懸けの社長業とは言え、お気の毒ではあった。

 大林社長が亡くなったので、急遽、金子常務が社長に就任した。井上副社長が、長津田から出て来ないので、臨機の対応策であるが、研究開発会社と、製造販売会社を二本建てにするというような意味では納得した。「ジャパックスは放電加工機の製造販売会社としてやっていく。」新社長宣言をある意味では歓迎もしたのだが、わずか1年ほどの短命であった。副社長より下の人が社長になって、位置関係が逆転してしまったのだから歪みも起きる。少し足が浮いたところを払われてしまった。

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