形彫り放電加工は如何にして育まれてきたのか?

佐々木和夫

16.番外編「溝の口」周辺今昔
 昭和43年7月に創立15周年を迎え、会社もかなり賑やかになってきた。私が入社した昭和31年当時20名も居なかった社員が160名に増えた。電気加工の総合メーカとして、扱い商品の種類も増えてきた。ざっと書き並べてみると、放電加工機、電解加工機、電解研削盤、電解バリ取り装置、放電焼結装置、放電圧力成型装置etc.である。
 実は、ここまでは故大林社長が15周年記念にと書かれた本の略年譜を参考にさせていただいた。ここから先の年譜は、自分で整理してみるしかなさそうだ。断片的なものはかなり先まで書いてみたが、前後関係がどうもはっきりしない。それらの整理がつくまで若干休ませてもらおうかな、などと考えている。中身も少しリフレッシュして新装開店?

 ところで昨年の暮、渋谷で仲間たちと一杯飲む機会あった。この連載について「少し進度が早いのでは?」と言うのである。要するに年代の新しい方は、だいたい分かっているから、旧い方を主にしてもっとゆっくりと、と言うことかも知れない。
 そんなこんなから、テーマとは少し離れるが、ジャパックスのあった「溝の口」近辺が大きく変貌したのを機会に、番外編として以前の「溝の口」風景を少し記憶に残しておこうという気になった。我々OBにとって「溝の口」は、やはり「EDMのふるさと」なのである。そしてわずかでも「溝の口」に想い出があり、今は遠隔の地に居る人達へのお便りにしようと思う。興味のない人には申し訳ないが、御寛恕下さい。

 この地に、全然足を運んだことのない人に付け加えると、「溝の口」は、東京と横浜に挟まれた「うなぎの寝床」のような川崎市にあり、川崎市を背骨のように走るJR「南武線」(川崎−立川、全線約1時間)の中間より少し川崎寄りにあり、東急「田園都市線」(当時は大井町線)と交差する交通の要地であるにもかかわらず、駅前開発が遅れに遅れていた。付近住民との調整に難航したのであろう。 駅も駅周辺も人と車の混雑に耐え切れそうもなくなった頃、ジャパックスは「溝の口」から撤退してしまったので、直接関係なくなった。もうどうでも良いようなものだが、夢に見たような立派な駅になってみると若干の感慨はある。

 最近の変貌した「溝の口」駅とその近辺の描写は私の筆力では難しいので、「百聞は一見に如かず」となるのだが、ともかくJRと東急の両駅の間にあった商店街が一掃されて直接に回廊(?)でつながった。駅舎や歩道を宙空に持ち上げて、下をバス停やタクシー乗り場にしたので、雨に濡れることのないかなり大きなスペースが出来た。そのせいか、駅とその周辺にホームレスとか得体の知れない人が増えたと嘆いた人がいた。
 地下道は全然作らず、歩行者は上を通すようにしたので、私の郷里仙台の駅前のような雰囲気もある。司馬遼太郎著の一節「セピア色の仙台駅舎の2階か3階に露天の宙空の広場が張り出している。そこからいくすじもの宙空歩道が出ている」雨には濡れるが地下より見通しが良いから方向は定めやすい。

 あるタクシーの運転手の話の又聞きであるが、お客さんが「溝の口駅」と言うので乗せて来たら、うつらうつらやっていたお客さん、「これは溝の口じゃない」と言って怒ったそうな。すっかり一見都会的な雰囲気に変わってしまった。
 私が入社したばかりの頃の南武線「溝の口駅前」はまだ田園的な雰囲気が漂っており、田舎の駅前の風情だった。以前書いたが、学生時代、池貝を見学に来た後、友人が「こんな田舎の駅に2度と来ることはなかろう」と言い捨てた駅でもあった。

 「溝の口」の名前の由来は知らないが、読み替えれば、「どぶの口」である。どぶ川が多かったためかも知れない。「南武線」は本来、多摩川の砂利を運ぶために作られたと言う。まず多摩川があり、東海道の宿駅が出来、川に沿って発展したのが川崎市なのであろう。大昔は、今の南武線の位置と多摩川はもっと近かったらしいが、まだ詳しくは調べていない。そのせいか、台風や大雨には弱かった。
 南武線ぞいの道路が一部冠水し、寮に帰るのに靴を脱ぎズボンを捲り上げて突破したことがあったが、線路側の反対側は、畑や田んぼの時代だから、線路を定規にして歩かないと、溝(どぶ)にはまる恐れがあった。後年であるが車の排気管まで水没し、動けなくなったこともあった。この辺はよほど水はけが悪かったらしい。

 当時、木造平屋の小さな「溝の口駅」に隣接して「らんぶる」なる駅付近唯一の小さな喫茶店があり、時間待ちの客で結構繁盛していた。その頃の南武線は時間帯によって、30分に1本位だから乗り遅れると大変だった。時には、大井町線(現田園都市線)に通じる商店街の入口付近にあった小さな本屋で、立ち読みして時間をやり過ごした。
 駅を背にして、せまい道路を越えた先に「灰吹屋」と言う妙な名前の薬局があり、仕事に使う薬品類などもかなり買った。それと並んで、「多摩川ハイヤー」なるハイヤー会社があって、ジャパックスは大得意先であった。このハイヤー会社に利用客が列をつくっているのは、よく見掛けた駅前風景である。

 向かってその右隣が、石原商店なる文具店で、会社の事務用品関係はほとんどこの店から買った。これらの店は駅前の顔として、駅前大改造の前まであったとか思うが、取り壊されてしまった。
 そのお陰で駅前の小さな本屋「文教堂」などは、書籍数20万冊という巨大な「ブックセンター」に変身した。その前にあった杉崎時計店は今は仮店舗だが、4階建てのビルを造るとか。変な名前の灰吹屋は「ハイフキヤドラッグストア」としてこれも何倍にもなった。少し飲んでいて「ハイフキヤ ドラッグ」何じゃこれは? で思い出した。石原商店もかなり大きくなり、よく会社に来ていた小柄な店員君も年をとったが、「店無くなりませんから今後ともよろしく」とのこと。残念ながらこっちが無くなってしまった。移転してみな大店舗になった。我々が特にお世話になった店と言えば、会社の門前の「むかさ商店」とか出前食堂のいろいろだろう。入社早々に、「つけ」のきく店として先輩から紹介してもらった。給料日になると、帳面を持ったおばさんが社内を集金に回っていた。今はコンビニに変わっている。

 「溝の口」に住むようになってからしばらくして、悪友たち(?)に誘われて飲みに行くようになった。当時の「バー」である。今は「スナック」とか「パブ」とかに名称を変えたが、どう違うのかは知らない。我々トリオは、バーではそれなりに知られるようになった。「溝の口」界隈に、「バー」と称するのが3軒だけあった。「トリス」と「オーシャン」と「サントリー」である。今は数え切れないほどある。当時は「ハイボール」とか「オンザロック」が一般的で、一杯40〜50円だった。酒棚にはいろんな種類の酒が置いてあってカクテルの材料になった。大体は店の女の子が飲んで金だけ取られた。

 「溝の口」で飽き足りない人達は東京に出た。当時の大井町線に乗ると、「高津」「二子新地」で多摩川を渡り東京に入った。「自由ヶ丘」で降りるか、さらに乗り換えて「渋谷」まで足を延ばすかである。乗換えが面倒で、大体は「自由ヶ丘」で降りた。
 現在、通勤のため東横線で朝晩「自由ヶ丘」を通っているが、こちらの駅前風景にはそれほど大きい変化はない。念のためにと降りてもみたが、駅舎なども含めて何故か? 昔と大して変わっていないように思う。

 駅の近くには、夜には屋台が出ていた。ラーメン屋とか、おでん屋である。どこにもある夜の駅前風景だが、「詰め将棋屋」が店を出したことがある。「溝の口」には珍しいが、南武線と当時大井町線の乗換え乗降客が通るので、立ち止まる客も結構多い。乗換え時間待ちにと入った飲み屋の常連客になったと言う人とも後に親しくなったが、「溝の口」はこれらの乗換え客の恩恵を被った町と言えないこともない。電車の本数が少なかったからどうしても時間つぶしに町中を歩いて回る。
 「溝の口」に乗換えで降りたとき、せっかくだから、会社のあった方に少し散歩して見ようと、南武線の踏切近くまできたら、「溝の口−KSP循環」と言う、ほぼ満員のバスが向かってきた。もう会社まで歩く時代ではないのかと思い、方向転換してしまったが、バスがくるくる回っていては歩く気もしなくなる。

 方向転換して、高津駅の方に向かって歩いてみた。一時期は夜など我が物顔に歩き回った町ではある。少し歩き疲れてきたが、「お久し振り」と言って入る店も本当になくなった。結局、「浪花」なる赤提灯で好きな「八海山」でも飲もうと暖簾をくぐったが、この夫婦だけでもしばらくは健在で店を続けてほしいものである。
 まあそんなわけで、年月も経れば変わるべくして変わってゆくものかも知れないが、昔の恋人? に会いに来た人があまりの変貌にショックを受けてもお気の毒であり、変わり具合を多少お伝えしてみようとしたのだが、やはり「百聞は一見に如かず」かも知れない。
 「ふるさとに入りて先ず心痛むかな道広くなり橋もあたらし」石川琢木の歌だが、私も半分はこんな心境である。

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