形彫り放電加工は如何にして育まれてきたのか?

佐々木和夫

15.初のトランジスタ電源と油圧サーボ
 ジャパックス社製の最初のトランジスタ電源は、初めて見る人をびっくりさせるような顔をしていた。操作パネルにはピン穴が沢山開いているだけなのである。従来型の電源に馴染んでいる人達には、奇異な感じを与えたことだろうと思う。作っている方は、その以外性がまた楽しい意味がある。このへんの発想や考え方についてはかなり柔軟だったように思う。
 このピンボード方式になった理由はいろいろあるが、一つはプログラムコントロール方式の先駆的な採用による。Z軸の信号が入れば、自動的に加工条件が4段階に切り替わるような配列になっていた。当時、この種のものは全世界どこにもなかったので、この分野ではまさにトップランナーであった。

 実は、昭和42年の初め頃か、「将来のEDMを描いて見ろ」という課題をもらい、「将来予測」のような話をいろいろ書き並べて提出した。大別すると自動化して行く方向と加工性能の向上して行く方向である。未だ「プレス抜き型」加工の多かった時代であるが、必ず1回は「切れ刃」加工のために加工条件切り替えが必要であり、急ぎの場合は、そのためにだけオペレータが夜中まで帰らずに待っていなければならないことがあった。
 あるユーザの社長から、「放電加工機の前に漫画の本が積み上がる。何とかしてくれ!」加工条件切り替え以外にも異常放電監視などもあるから、オペレータが帰るに帰れず、暇つぶしに漫画の本を読んでいるという。そう言えば機械のそばに囲碁、将棋、麻雀、簡易ベッドなどいろいろありました。

 放電加工機が、自動機であるためには何をするべきか? をレポートしたようだが、考えていることは皆さん同じだったと思うので、代表して書いたようなものかも知れない。今ではその当時書いた鏡面仕上げとかもほとんどが実現している。
 電源の方は、4段階の自動条件切り替えが可能になっても、Z軸の位置信号は機械側から与えてやらねばならない。また、プレス抜き型においては、「裏逃げ」の荒加工から、「切れ刃」の仕上げ加工に切り替えた場合、加工液圧をかなり高くしてやらねばならない。このへんの装置は電源が出来てからの構想であった。電気系を機械系が追いかけるという場面はよくあった。

 このトランジスタ電源、42条件ほどあり、その全てについて「加工速度、面粗さ、電極消耗率、オーバーカット」のデータを採っていったが、トランジスタ破損のトラブルなど頻発し、アイドルタイムがかなり出来た。初期トラブルは毎度のことなので、そのうちに片付くと思っていたが、この電源、トランジスタのトラブルが容易に解決せず、納入後の対応に追われることになった。翌昭和43年に「QC電源」なる名称で発表された。名称の由来は電気量Q(クーロン)のコントロールを意味するが、QC(品質管理)にも引っ掛けてある。その願いの割りには残念ながらトラブルが少なくなかった。それなりの理由はある。この「QC電源」、トランジスタ電源ではあるが、後の電源のようにピーク電流、オン、オフタイムがそれぞれ独立せず、セットになったもので条件設定が簡単である。この「簡単でやさしい」が結構アピールした。条件設定は、ピンを1本差し込むだけでよい。ピンを差し込むとロータリースイッチがカタカタ音を立てて回り、加工条件が決まった。

 ともかく、今まで異常放電で苦しんできたので、この電源になって比較的安全に加工できるようになったのは大きかった。他社のトランジスタ電源に比して能率は少し落ちるが、ともかくは安全優先である。
 それとアダプティブコントロール(適応制御)をキャッチフレーズにしたのも成功した。やがてM社も追随し「適応制御」とか「最適制御」とかと言う言葉が乱れ飛んだ。オフタイムを延ばすため、電極低消耗には少し甘くなるがやむを得ない(後でわかった)

 一方では、油圧サーボ機の方も着々と完成し、小型機を除いては油圧サーボの方に移行していった。電源がコンデンサからトランジスタに替わったように、サーボがモータから油圧に替わったのが昭和40年代に入っての特徴である。油圧サーボ機のシリーズはDHシリーズと名付けられたが、その最初の試作がDH150A型である。この試作機でいろいろ実験した。油圧サーボの心臓部は何と言っても、サーボバルブである。昔、池貝と外国品のコピーを作ろうとしたが、中途半端で失敗したことがある。この頃、国産品も出回り出して価格的にもかなり安くはなった。当初のものはやはり外国品のコピーであった。
 形彫り放電加工機のZ軸には、段取り時の早い動きとサーボ時のデリケートな動きとが必要である。このためにサーボバルブにも放電加工機用の改良が加えられ、特許も何件か出願された。

 油圧サーボにほぼ全面的に移行して行く段階で問題になったのは、Z軸がモータサーボのように完全静止しないことである。機械的クランプで力まかせに固定するとクランプを外した時に突然落下すると言うようなトラブルも発生した。また、クランプ、アンクランプ時の変位も解決すべき問題ではあった。
 油圧サーボの初期トラブルはいろいろあったが、小型機1機種を除いては油圧に移行して行かざるを得なかった。アプリケーションが底付き金型に大きく傾斜して電極も大きく重くなり、加工液の極間に及ぼす力も大きくなって、力の弱いサーボでは対応できなくなったのである。

 DHシリーズのなかでは、DH200BPなる機種が特に好評だった。この機種のみは、油圧サーボ以外にマニュアルによるラムの上下動があるのが、段取り作業時の操作性をよくしていた。
 この年の秋の国際工作機械見本市は東京晴海で開催され、油圧サーボ機シリーズとトランジスタ電源を出品して好評であった。DH200BPを代表とし、適応制御放電加工機と称したのが功を奏し、日刊工業新聞社の「十大新製品」に選ばれた。この授与式には私にも行けと言うので故大林社長のお供で出席し、賞状と楯か何かいただいてきた。

 その頃の私の役職は、技術センターEDM主任技師というのであったが、当面の大きな課題は、DHシリーズ機械系とトランジスタ電源の組み合わせをより良いものにしていくことであったと自分では思っている。
 しかし、それに逆行するような動きも生じた。好評のDH200BPはコストが高く、利益率が低いから止めろという命令である。マニュアルとサーボの2ウエイあるから当然高くなるし、両者のアライメント調整も工数が掛かる。サーボのみのシングルウエイにせよと言うのである。実施してしまったが不評で、より慎重に検討するべきであった。金のことを問題にするのは、経営者としてやむを得ないが、他にやりようがあったと思う。後で述べる。

 機械系については、池貝鉄工でつくっていたものをT製機に移してからいろいろ問題があって、立上がりにかなりの労力を要した。DH150Aの最初のロットなどは、大幅に手を入れなければ製品にならなかった。2ウエイなどは難しくて出来なかったとも言える。実施すればコストへのはね返りが大きくなる。
 ところで会社は、この昭和43年の7月に創業15年を迎えた。タイミング良くこの月にアメリカ・ロッキード社に対する「放電焼結」に関する技術輸出契約のニュースが一般紙にまで報道され、会社のイメージアップに貢献した。対価は確か6万ドルと記憶するが、1ドル360円時代であるから小さくもない。因みに月商がやっと1億円の大台に乗った頃である。従業員数は約160人にもなっていた。

 まだまだ問題はあったにしても、一応の商品危機は回避でき、体制も再構築されつつあるように思えた。営業拠点も昭和40年に大阪、翌41年に名古屋と開設された。大阪の初代所長に町田さん(現放電精密)、名古屋の所長は初代の小林さん(現自営)から、石坂さん(現放電加工センタ)にバトンタッチされていたと思う。その名古屋営業所に赴任したのが、若き日の現YJS販売社長の高橋さんで、石坂さんとの出会いである。それ以来、転勤なしのただ一人の例外で、名古屋にしっかり根を下ろしてしまった。
 「満ちれば欠ける」は世の習い、順風万帆のごとく見えた会社の足元が少しおかしくなり始めていった。後から思えばになるかも知れないが、労使の信頼関係が崩れてゆき、不穏な雰囲気が漂い始める。総務担当役員にKさんが着いたあたりから、組合活動が少しエスカレートしていったように思う。

 そんなことから、研究所の分離独立が検討されはじめた。池貝溝の口工場の敷地内から脱出しようというのである。これを手始めに組合運動の影響を避ける別会社つくりが始まった。

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