放電加工補遺物語

− 若い頃の関西出張(1/2) −
 ジャパックスが日本放電加工研究所と言った昭和30年代前半の頃の話である。 当時、大阪、名古屋はじめ各地区の営業活動は、池貝鉄工各地区担当営業所が行っていた。 まだ、放電加工の日が浅く一線のセールスマンには知識が浸透していないため、 技術的なバックアップには放電加工技術者が出かけて行った。 やがて先輩諸氏から私にもオハチが回ってくるようになった。

 最初の大阪出張は年月がはっきりしないが、入社2〜3年後のことだと思う。 私より少し後に池貝鉄工から転籍してきた大先輩故田村作太郎さんと一緒だったと記憶する。 最初だから、池貝大阪営業所の皆さんに紹介してもらったり、 なじみの旅館に連れていってもらったり、飲食街を案内してもらったりとお世話になった。 何しろ大阪は、高校の修学旅行以来で、そのときは駆け足で大阪城と造幣局を見学しただけだった。
 池貝の営業所が淀屋橋で、旅館が梅田近辺にあったから、 夜にうろうろするのもキタのその界隈だった。 池貝鉄工の連中がいつもたむろしていたのは、"お初天神"の近くにあった安いのが取り柄の居酒屋で、 その後私も出張時はよく行くようになった。

 田村作太郎さんとその夜に行ったのは、曽根崎あたりの"てっぽう"という大衆的フグ料理の店である。 当たると死ぬという名が印象的で忘れ難い。 ひとかかえほどの張り子のフグの横っ腹に"てっぽう"と書いて吊るしてあった。 てっぽうは店名ではなくフグのことだったのかも知れない。 この店の"てっちり"は一人前確か150円だった。
 ラーメンが40円の時代だから、桁が一つ上がるのだろうが、 ひと桁上げても1,500円は安いからほとんどがフグのアラである。 そのアラの鍋をつっつきながら"ひれ酒"の熱いのもいける。 田村さんとの思い出は結構多いが、"てっぽう"もその一つで、いつも楽しくほどほどのお酒を飲む人だった。
 熱燗で一杯やっているうちにいい加減に眠くなってくる。 当時の大阪出張は夜行列車専門だからあまり眠れないときがある。 特に寝台が取れないときは座席でうつらうつらしてくる程度だから眠い。 早めに宿に帰って寝ようかということになる。おかげで経費面では幸いした。 安い宿に泊まり、安い飲み屋に行って、出張旅費のわく内に何とか収めていたように思う。 使い過ぎるとろくなことを考えない。

 ところで関西では、松下電工とか住友電工とかの大手が放電加工に早くから関心を持っていた。 松下電工ではその当時の研究所長でのちに社長になった小林さんがキーパーソンで、 研究所長時代は研究者同志として井上さんとも親交があり、 会社まで何回か来ていただいたりしたが、社長になられてからは行き来が少なくなっていった。
 それでも、後に私が大阪に赴任してから、プライベートショーなどの案内状を小林社長に直接お送りすると、 必ずのように役員の方を代理に出席させていただいていたから関心は持ち続けていただいていたものと思う。
 住友電工の当時のキーパーソンは、のちに取締役粉末合金事業部長になった広松さんという方が担当者で、 その上に入江さんや玉置さんという後に大阪ダイヤモンドの社長になられた方がいた。 放電加工技術研究会大阪支部をつくった時の初代支部長をお願いしたのが入江さんだったと記憶する。

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