放電加工補遺物語

− 続・みちのく出張旅行(2/2) −
 因みに、たまたま見つかった放電加工技術研究会の39年度(東京オリンピックの年)の会員名簿を見ると、 東北地区会員は法人5社、個人9名に過ぎない。その個人会員の過半数が東北大の先生方である。 関東地区法人154社、個人75名に対して合計数でもわずか6%である。

 閑話休題 またまた私ごとで申し訳ないが、私と東北大との関わりを少し述べさせてもらいましょう。 私が中学を出た昭和24年の頃は、東北地区の有力企業数が極めて少なく、 理系大卒者への地元企業からの求人はほとんどなかった。 そんなわけで地元に就職するのが当然と思っていた長男の私は大学に行くつもりは毛頭なく、 早く就職して大家族の厳しい家計を少しでも助けようと思い、仙台工業高校に入った。 雪の降る日でも素足に下駄で通学したが、下駄はクラスでも2人だけだった。 早く卒業し就職して靴を買いたかった。
   そんなわけで、高校3年生の夏休みにも卒業単位の企業実習をやっていたが、 担任の先生とか従兄弟の丹羽さん(故人、当時東工大講師)とかが、 わが親に"一生に一回だからダメモトで受験させてみては?"と進言した。 親も説得されて仕方なく、試しに一発だけやってみては?となった。 当時でも工業大学から現役で合格する可能性はまったくと言っていいほどなかったので、 どうせ落ちると思ってのことではある。私だって靴も買いたいし、弟妹にも何か援助してやりたい。
 そんなわけで、落ちても何んにも失うものがない。鼻歌まじりで受験したのがよかったのかどうか? たまたま合格してしまった。鼻歌でも合格できるのかと思われると、 努力して入った人に申し訳ないので、少し長くなるが一つだけ付け加えて置きましょう。

 本試験の前に今の入試センター試験のような全国一斉のテストがあり、 これは範囲が広過ぎてにわか試験勉強はあまり役に立たない。 このテスト問題が出た時、文系の問題は私の読書範囲にあるようなことばかりのような気がした。 今のセンター試験の国語の問題などもそれに近い。 理系も比較的やさしい問題ばかりという感触だった。 何しろ鼻歌だから出来ようと出来まいとどっちだって良いのである。
 テスト終了後、「今年から問題がずいぶんやさしくなったね。」と正直に感想を言ったら、 級友たちがみんな「??」変な顔をするので首をかしげながら家に帰った。 結果が出たらどうも勉強しないで本ばかり読んでいた私に対してはやさしかったようなのである。 本試験はさんざんだったが、これの望外な点数が底上げになってからくも滑り込んだ。 下駄で通うわけにもいかないので、見かねた靴屋の叔父が靴をつくってお祝いにくれた。 良かれ悪しかれ、そんな偶然が人間の一生の分岐点になっていくのだから、不思議なものである。
 話し戻って、金属工学科の訪問は午前中に済んだ。 ユーザと書いたが、あらためて思い返してみると、放電加工機があったかどうか記憶に定かではない。 電極材の開発なので、テスト用の加工機を貸与していたように思い込んでいたのかも知れない。
 午後は学内に散在する知人友人を訪ねて歩いた。表向きの用件は放電加工のPRである。 大学の職員として、おじが3人、高校の同級生が3〜4人勤めていたので、行くところには困らない。 だいたい子供の頃から叔父の関係で大学構内を自分の庭のようにウロウロしていたのである。

 自分の学び舎だった精密工学科も訪ねた。高校の同級生も勤務していたし、 研究実験のテーマに放電加工をやってみようという機運あった。 その後、一年後輩の大学院生八戸信昭氏が手がけ、ジャパックスにも勉強がてら一カ月ぐらいだったか実習にきた。 研削の佐藤健児先生の研究テーマの流れだったように思う。 氏はジャパックスでは、高速回転する円盤上に放電痕をつくり、 ぞうり虫みたいに伸びた放電痕の顕微鏡写真を時間軸との関係で解析した。 放電研削の基本的実験の一つでもあったのだが、放電研削があまり実用化されていなかったので注目されなかった。 それよりもその後にやった、"放電加工によって超硬合金に発生するクラック"を理論的に解析した論文の方が興味深く、 会誌にも寄稿してもらい、参考資料としてかなり使わせてもらった。 氏は大学教授への道をすすみ、今も都内のある大学の現役教授である。

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