放電加工補遺物語

−国内外出張旅行(2/2) −
 話戻って、最初の訪問ユーザ林精器製造は中堅的時計部品製造業で、 時計のケースなどもつくっていた。そのケースの金型加工に放電加工が利用されていた。 全品大手の時計メーカに納品するもので、その営業拠点は東京の日本橋にあった。
 この会社で特に印象に残ったのは、課長さんだったかに工場を丁寧に案内してもらい、 恐縮するほど懇切に生産ラインを説明していただいたことである。 現物を見ながらのいい勉強になった。 おかげで時計ケースの製造工程などがよくわかり後のために大いに参考になった。 逆の立場から、会社に来訪してくれるお客さんに親切に対応して挙げねばならないなと心底思ったものである。

 東北人は東北に行くのはやはりうれしい。東北の企業に行って、 我が輩も東北人なりと名乗ると距離がぐんと縮まる。 "ズーズー弁"同士としての仲間意識もあろう。 東北に行って親切にしていただいた想い出はその後にもたくさんあった。
 その夜はその親切な会社の紹介で須賀川の和風旅館に泊まった。 須賀川は阿武隈川の上流で郡山市の少し手前にある。 昔は奥州街道宿場町の一つだったそうで、昔、みちのくの旅をした松尾芭蕉もここに4、5日逗留し、 "風流の初めやおくの田植えうた"などと詠んで"おくのほそ道"道中日記に記した。 そんな縁で芭蕉記念館がある。
 現今のビジネスホテルも悪くはないが、昔風の素朴な和風の旅館の良いところもあった。 もう春だったが夜は冷えることもあるので、炬燵がまだ片付けられないであったと思う。 炬燵に入って田舎風の山菜料理などで燗酒一献などというのは旅館ならではであろう。 手が空いていればおかみさんや女中さんが適当に話し相手になってくれる。

 そんな話から、松川を経由し福島までのバスが出てるというので、 バスに乗ってみることにした。松川は福島の少し手前で、 JRの距離にして須賀川から約40キロである。よく晴れた日で車窓からの田舎風景が印象に残る。
 松川はあの松川事件という列車の脱線転覆事件があったところである。 この事件は戦後最大の冤罪事件とかで、何人かの死刑から一転無罪判決まで長い年月を費やしたことで有名になった。 共産主義弾圧のためのでっち上げ事件だったというが、悪いことを考えるヤツもいるものだ。
 松川の北芝電気では体育館のような広い工場の片隅に放電加工機が置かれてあり、 プレス抜き型を加工していた。その工場にはこれからいろいろな機械が設置されるのだろうがまだガランとしていた。 ここで、放電加工機のサーボ送りが時々おかしくなるというクレームにぶつかった。 ちょうどいいところに来てくれたと言うわけである。
 この工場に入って間もなくわかったのは、プレス機械のドスーンドスーンという音と振動である。 別の片方の隅に大型のプレス機械が入り、試作程度にたまに稼動するとのこと。 サーボの乱れはこのドスーンドスーンと連動していた。 振動が問題なのはサーボモータの通電ブラッシュだった。 振動によって通電ブラッシュ接触不良が起きていた。 またその接触不良による微小放電によってブラッシュがかなり痛んでいた。

  応急処置はしたが、振動がある限りまた同じことが起きる。 設置場所を移すか、防振対策を施すようにアドバイスした。 オペレータのレベルが低かったか技術指導の手間がかかり、 松川駅に着いたときは夕暮れになっていた。それからが大変だった。
 その日は仙台の実家に泊まって夜の街でも歩こうというのに、 下りの普通列車が2時間くらい来ない。特急、急行はみな通過してゆく。 都会暮らしに慣れるとなると、ローカル駅の列車本数の少なさなどついうっかりする。 おまけに駅近辺に飲食店らしきものは何んにもない。 淋しい薄暗い駅のベンチに2時間近くいらいらしていたのが何とも忘れ難く、 どう変わっているか一度行ってみたかった。
  それが岡本工作機械に入ってたまたま実現した。 松川のあるお客が岡本工作機械の放電加工機に興味を持っているから、 行って詳しく話を聞いてほしいと仙台営業所から応援依頼が入った。 40年ぶりくらいに松川駅に降り立って、そのあまりにも変わっていないことに驚いた。 首都圏の駅とその周辺の激変ぶりとは別世界である。 今度はしっかり帰りの時刻表を頭においてからユーザに向かった。
 もっとも、東北のあるユーザさんが言うには、"東京から来る若い人で、 来る早々に帰りの時刻ばかり気にするような人がいるが、 そんな自分本位な人とは付き合いたくない"そうだから、 列車の時刻表など気にしなかった当時の方が正解だったのかもしれない。

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