放電加工補遺物語

−国内外出張旅行(1/2) −
 前回は韓国旅行について書いてみたが、引き続いて出張旅行の想い出を書いてみよう。" 旅は人生である"とか何かで読んだ。"人生は想い出に生きる"というのも読んだことがある。 ジャパックスのおかげで、国内は沖縄を除く全都道府県、 国外はロシアを最初に十数ヶ国を社費で旅行させていただいた。今では大切な想い出になっている。 その断片を綴ってみようと思う。その頃の様子を垣間見ていただければ幸いである。

みちのく出張旅行
  入社2〜3年後のある日、井上常務 (当時)から「東北のユーザを一回りしてこい。 放電加工がどのように使われているかをよく見てこい。」と突然に命じられた。 大概いつも指示される言葉は短いので、その目的意図は自分で推測することになる。 アフターサービスがてらユーザの情報をつかんでこいと言うことであったろう。 それにしても、私にとって"みちのく旅"など願ってもないうれしい話である。 "いま何故東北か?"私が東北出身であること以外の理由は何もなかった。 まあサンプリング的に東北方面のユーザでも回り、せっかくだから故郷にも寄ってこいという意味でもあろうと勝手に解釈した。 厳しい反面そんな思いやりもある。
  プランは自分で立てろと言わずもがなのことなので、5日間で、福島、宮城、岩手、秋田と回ることにした。 と言っても当時東北のユーザはまだわずか5社ほどなので1日1社である。 青森と山形にはまだユーザがなかった。今のように新幹線があればずいぶん早くて便利であるが、 当時は移動時間もかなり見込まねばならない。 もちろん社用車でサービスに回るようになるのはずっと後のことである。
  福島県のユーザには、須加川の林精器製造と松川の北芝電気とがあった。 宮城県は仙台の東北大工学部金属工学科、岩手県は花巻の新興通信機(当時)、 秋田県は本荘の小林製作所である。 40年以上前のことを記憶だけを頼りに書けるのもこの旅が特に印象の深いものだったからであろう。 ふとしたはずみで、1〜2度しか会っていない面会者の名前が浮かび出てきたりする脳の不思議に我ながら驚いてしまう。

  余談ながら、私はプロアマ問わず、いろいろな人の体験記を好んで読んでいるが、多くの人が幼児期のことを鮮明に覚えていて書いているのを読んで驚嘆する。 例えば女流作家の柳美里さんは三つか四つの時のことを書いているが、 悔しいけど私にはそんな幼児期の記憶などほとんどない。
  出張に先立って、誰もがするような訪問先情報をリストアップしたが、 併せて、同窓生の有無を調べておいた。何かの役に立つ。 というのは、岩手県は花巻の新興通信機(当時)を商談のため訪ねてきた 当時の営業担当の三水(竹千代・故人)さんが、我が先輩のKさんと意気投合して、 いかに楽しい時間を過ごしてきたかをさんざん聞かされていたからである。 ワンコそばとかお酒のお付き合いが特に気に入ったらしい。
  みちのくの旅と言えば、その玄関口は上野駅だった。 東北出身の人間にとって、上野駅は故郷の香りがする特別の駅だった。 あの駅には懐かしい想い出がたくさんあったが、 東北新幹線やすべての新幹線が東京駅発着になってからは上野駅に行く事もほとんどなくなって、 単なる通過駅になってしまった。

  当時はまだ列車が完全に電化される以前で、 今のようなスピードと快適さがないことは言うまでもない。 我々当時ヒラが乗る三等車はかたい固定椅子で長時間乗るとお尻が痛くなった。 向かい合わせの4人席だから足も自由には伸ばせない。 尻痛さから逃れるために、仙台や名古屋あたりまでも夜行寝台に人気があった。
  昔の列車の旅ではよく衣服が汚れた。 窓の隙間からどうしても煤(すす)が入ってきて、窓側の手摺や椅子に付着する。 そこに肘をついてワイシャツの袖口を黒くしたことが再三あった。 夏など暑いので少し窓を開けましょうか?とか言って開けているときトンネルにでも入ったらあわてて閉めないと大変だった。 煙だらけになるのは我慢しても、目にまで石炭の燃えカスが飛び込んできて一大事である。

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