放電加工補遺物語

− 放電加工技術の黎明(2/2) −
 スチームが通って暖かい私の居室から、 工場のはずれの全然火の気のない寒い研究室を一人覗きに行ってみた。 そこには日本放電加工研究所(筆者注:のちのジャパックス)の人達が数人で盛んに機械の調整をしていた。 そして油気のないバサバサの頭髪で首巻きをダブルの背広の中に押込み、 両手を背広のポケットに突っ込んで、アゴで指図をしていた野人的風格の紳士が、 かの有名な井上博士であったことは、その後数日を経て知った。
 やがて年が明けて30年1月のある日、 私の研究室に多数の学生や助手達が参集していよいよ放電加工機の立会い試験が行われ、 鋼鉄のノコ刃が真鍮の丸棒で見る見る穴が開けられる様を見て参集者達は驚き入ったのであった。
 一応のデモンストレーションが終わったところで二村技師 (筆者注:現放電精密加工研究所社長)が放電加工の電気回路について説明し、 江口技師が加工のメカニズムなどについて助教授達の質問に多少つまり気味に説明したのであったが、 あれが、今一世を風靡しつつある放電加工機ジャパックスの第一号機の誕生の産声であったのである。 (石川島重工鰍ノもその頃ジャパックスが入ったと聞くが、 いずれが第一号機か、詳しいことは私は知らない。)
日本の放電加工機の黎明は、ジャパックス第一号機の試運転成功によって告げられた。 さてあれから3年と2ヶ月経った。今日果たして午前何時頃であろうか。

 以上少し長いが全文を転載させていただいた。文中にある、アメリカのMethod−Xは、 放電加工をアメリカの文献で広く発表する前にアメリカの特許を取得しており、 超硬合金に穴を開けたサンプルの写真をつけて、 池貝鉄工にもライセンスを売り込んできたというから、 日本の有力工作機械メーカほとんどに売り込みを図ったようである。
 高周波放電現象の研究に取り組んでいた丹羽さんも、この文献を念入りに読んで、 放電加工法に興味を持つようになったと書いてあるから、おそらく当時、 大勢の学者や企業が、これで放電加工を詳しく知ったのではあるまいか。 私も学生時代に加工法特論という講義で、放電加工法の概要は聞いている。
 ジャパックスに入ってまだ若い頃、加工上のことで東芝姫路工場を訪ねたことがある。 そこに見慣れないノーブランドの放電加工機が稼動していた。 メーカを聞いたら自家製とのことで、昭和20年代の作と聞いた記憶がある。 東芝にも放電加工をやろうとした人がおられたようであるが、この世界にはパテントの問題があった。
 わが国では、放電加工について東大が早くから比較的熱心で、 日本ではただ一つの基礎特許を東大総長の名でとっていた。 昭和29年、"東大に話に行ったところ、 ロイヤリティーを支払ってライセンシーになるなら許可できるが、 その後の発明は全部東大に帰属するとの内規ができていた。" とジャパックスの15年史に故大林元社長が述べている。
 "その後の発明が全部東大に帰属する"とあっては、研究開発会社は成り立たない。 ギブアップするか、ブレークスルーするかの岐路である。 何と言っても相手は日本最大の頭脳集団である。 リスクを冒してまで挑戦しようとする人はそう多くはない。 この特許がなかったらもっと多くの放電加工メーカが輩出したかも知れない。
 この特許は結局、昭和33年末に無効になった。 特許庁の審査官だった二村さんをスカウトしてまでの特許対応だった。 もっとも二村さんはものづくりが好きで、ものをつくらせてもらうのが条件でジャパックスに入ったと、 最近のインタビュー(電気加工学会)で言っておられる。 特許をやるなら特許庁に居るとも言われているがもっともだ。 
 どんな事業でも特許で抑えられたら手も足も出なくなる。 ロイヤリティーを払い、納入先ごと明細まで出しては長くやっていけない。 井上さんは猛然と特許を出願するようになり、"日記の代わりだ!"と直接お聞きしたように思う。
 私の入社当時には競合他社に小池酸素の子会社の小池放電というのがあったが、 長くは生き残れなかった。特許の問題もあったと思う。 三菱電機が競合メーカとして、はっきりしてきたのは、 東大の特許が無効になってからではないかと思う。 この世界は特許対策をしっかりしておかないと経営が成り立たないようである。

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