放電加工補遺物語

− 放電加工技術の黎明(1/2) −
 このYJS短信に連載をはじめてから早いもので約4年になる。 思えばよく続いたものである。そろそろネタも乏しくなってきた。 ぼつぼつ終わりにすればという声も聞こえてきそうであるが、 何とか続けろと言う励ましもあり、許されるなら、もう少しだけ語り継ごうかと思う。
 JAPAXの落日によって、放電加工の初期当時を語る資料が心ない人によりほとんど捨てられてしまった。 例えば、放電加工技術研究会誌"放電加工技術"のバックナンバーなどどこにも残っていないようである。 たまたま"第一号"だけは記念に確保してあった。 世の中にほとんどなくなったと思うので、 黎明期のことを書いた一文をこの短信に転載させていただいて残しておこうと思う。 以前から気になっていた。
 故丹羽理事(当時防衛大学助教授)の書いた"黎明"という一文である。

「黎明」(筆者注:れいめい、夜の明ける頃)  理事 防衛大学助教授 理博 丹羽義栄 
 放電加工技術研究会会報の発刊に当たり、放電加工技術の黎明期を少しく懐古して見たろと思う。 (筆者注:原文のまま、以下同じ)
 昭和26年頃であったと思う。 東京工業大学4階の大会議室では折から山本勇教授が委員長である高周波電力応用専門委員会が開かれていた。 そして静岡工高の吉田光治氏がアルミ板の小片を大事そうに取り出し、回覧にして講演を始めた。 吉田氏は30メガサイクルの高周波電圧で放電加工をやってみたところ、 ラザレンコ回路で加工したのに比べ、寸法精度、面粗度共に極めてよい成績を得たということであった。 ただしその当時はまだラザレンコ回路という名称はなかったので、 CRの充放電回路といわれたように私は記憶している。 今日普通ラザレンコ回路と放電加工屋さんが呼んでいるが、 これは後日倉藤先生(東大)などの機械屋さんが名付けたもので電気学における学名ではない。
 さて回覧にまわって来た数枚のアルミニュームの小片には直径3〜5mm程の小穴が 深さ1〜3mm程に掘られてあった。
 当時私は高周波放電現象の研究と取り組んでいたが、アルミ板に穴を開けるのに、 何もわざわざ放電だの高周波放電だの用いることもあるまいに、 奇特な研究者もあるものだと、講演を終わって降壇し、 自席に戻る吉田氏の後姿を小首にかしげて見送ったのだった。
 これが今日放電加工の虫となった私の放電加工に接した最初のものであった。 そしてその頃、鳳先生(東大)の放電加工の紹介やご自分の研究発表などの論文に電気学会誌で 2、3度お目にかかったが当時私は何の趣味もなかった。 当時はまだ放電加工も夜明け前の暗闇の時代であった。
 しかるに一方、超音波加工の方は一足先に世の中に出始めた。 ビニール接着用の高周波ミシンが大当たりした島田理化工業鰍ェやはり高周波応用の一つとして 超音波加工機を完成し市販していた。 超音波加工法も高周波という私の専門分野のうちなので色々と外国の文献などを 集めているとアメリカの文献の中にメソードエックス(エックス加工法とでも訳しましょうか) と称して米国のMethod−X社の放電加工機のことが詳しく書いてあるものが一緒に入っていたので、 念入りに読んでいるうちに初めて放電加工に興味を持つようになった。昭和27年頃であった。
 それから鳥山教授(東北大)が4メガサイクルの高周波放電でダイヤモンドに 小さな穴を開けたとか、倉藤助教授(東大)や松田教授(京大)が直流放電で超硬合金を切断したとか、 ソ連では工場から旋盤やボール盤を放逐して放電加工機に置き替える計画をしているとか、 日本でも数社が放電加工機の製造を始めたとか、その他のニュースを聞いたのは昭和28年頃であった。 これらの数々の話題は、まさに夜の明けんとする時、方々の畜舎(筆者注:鶏舎であろう、 誤植の可能性あり)より期せずして賑やかに起こる鶏鳴ともたとえられようか。
 昭和29年に、文部省の試作研究費によって超音波加工機と放電加工機を購入することができ、 私も研究室(当時私は東京工大にいた)にこの両者が据え付けられたのは昭和29年も押し迫った 12月末であったと思う。 佐藤工機鰍フ超音波加工機は難なく試運転が終わったが、 池貝鉄工の放電加工機の立会い試験は会社側の都合によって何回か延期された。

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