放電加工補遺物語

− 自動車産業と放電加工[2](2/2) −
 当時の名古屋営業所長は、とにかくトヨタ、デンソー,アイシンなどの トヨタ系大手企業に対応することが最優先業務である。それだけ引き合いも多かった。 因みに一般大多数企業への対応は高橋さん(現YJS販売社長)が一手にやっており、 名古屋営業所の数字の大半は彼が上げていた。
 これを機会に私も8年間愛用したサニーをやめ、 トヨタのカリーナ(トルコン付)に買い換えた。 営業の技術支援はかなり経験してきたが、直接の営業ははじめてである。 こうなると、今までつながってきた、例えばトヨタではKさん、 Yさんなどの面識のある人達が頼りである。商社が介在してないから直接動くしかない。
 はたして、トヨタやデンソーからの引き合いがかなりあり、 対応に追われる羽目になった。特にトヨタは三菱電機と一騎打ちの状態にあり、 トヨタ専門の担当者が複数いる三菱商事の名古屋が相手だから、多勢に無勢で苦戦は明らかである。

 トヨタからは、3か月間にそれぞれ仕様の違う大形機4台の定価ベースで 1億数千万円の引き合いをもらったが、すべて特別仕様のオーダーメイドである。 オイルショック後は、"省エネルギー"の大合唱で、軽量化対策が盛んになり、 対応に新しい金型を起こさねばならない。
 設備の窓口は、Yさんの属する計測汎用機課であるが、 決定権は生産技術部にあると言われていた。 Kさんは当時、第四生産技術課長で、放電加工の禀議書を上げる立場にあり、 Kさんのところでほとんど決まると思われていた。
 そんなわけで、Kさんのところも頻繁に訪ねていたが、 そんなある日、課内の打ち合わせ会議にアドバイザーとして出席してくれと言う。 新型のエンジンのダイキャスト金型製作のための検討会である。 放電加工用の電極製作がキーポイントだと言う。
 それにしても、小規模の打ち合わせとはいい大企業の社内会議に出席を 要請されたのははじめてである。軽量化した新型エンジンの金型で、 もちろん社外秘である。 信用がなければできないことである。
 確かに大変厄介な電極をつくらねばならない。 ミーリング加工では困難で、ワイヤ放電加工でトライしてみることになった。 有償で可だから試作したいと言うので、 小牧で石坂さんがはじめた放電加工センターにお願いすることになった。 地元が何かと便利であり、しかも二人は旧知の仲である。

 放電加工センターでは、そのため仕様の大きいワイヤ放電加工機(L450)を 新たに1台設備して対応した。 当時の性能では一つの電極に延々と400〜500時間かかるのである。
 さて、トヨタの大型商談も徐々に煮詰まってきた。 そんな時にじゃパックスの本社プライベートショーがあり、 Kさんがおみやげを持ってきてくれた。 生産技術部としてはジャパックスを推薦する禀議を上げたと言う朗報である。 結果的にはこの情報が油断につながってマイナスになったのであるが。 なおその頃はI所長が病気療養から復帰し私は本社に戻っていた。
 その晩は井上社長(当時)が一席もうけてくれた。 内示をもらったつもりで祝杯を上げたが、 その後に、Kさんも予知し得なかった落とし穴があった。 オイルショック後の設備投資抑制で、購買部門の発言力が急速に増していたのを若干軽視していた。 最後は入札的な価格勝負になって敗れたのである。

 最終価格を提示するよう言ってきたのをひねり過ぎて、 従来の慣習的判断から言葉通りに受け取らなかった。 営業部では今までの経験からもう1回ネゴありと推察した。 その余裕を残したのが値引き率の差になった。
 結局は情報収集力の差であろう。 Kさんから「1千万円近い価格差があったのを知らなかったのか?」と逆に質問された。 当然つかんでいる上での成り行きと思ったらしい。 相手企業が大きいと、メーカの人間が一人でチョロチョロするくらいでは、 毎日詰めている大商社には歯が立たない。
 それを感じて、旧知の岡谷鋼機の豊田支店長に頼みに行き承諾を得たものの、 トヨタ側が直接取引きを強く望むので実現しなかった。 メーカ直だと技術の方には強いが、購買部門の上層部に対するコンタクトが弱くて、 こんな最終回の逆転打を浴びる。
 Kさんはその後、知多鍛造部の部長になった。 Kさんの担当した鍛造型放電加工のトヨタ方式が結実したところである。

←前へ    目次    次へ→

Copyright(C) 1999-2009 by YJS All Rights Reserved.