放電加工補遺物語

− 自動車産業と放電加工[2](1/2) −
 私が学生時代の会社見学旅行で、はじめてトヨタ自動車を訪問した昭和30年の頃は、 日本の乗用車生産台数は年間約2万台だった。 トヨタで先輩役員から聞いた3千台生産目標と言う数字だけは妙によく覚えており、 その後の飛躍的な伸びで、年間台数を月間台数と勘違いする始末であるが、 月当たりにすれば、トヨタの乗用車生産台数は当時わずか250台であった。
 因みに、日本の乗用車生産台数は、昭和40年には約70万台(月当たり約6万台)、 昭和50年には457万台(月当たり38万台)になるのだから、 予測をはるかに超える飛躍的な伸びである。
 当時は、乗用車のこんな急速な伸びは想像もつかなかった。 マイカーなどは夢のまた夢のような時代である。 トヨタ本社に付随する古ぼけた木造の建物の小会議室か何かで、 先輩役員の説明を聞きながら、このいなかの会社に入りたいと言う気はまったく起こらなかった。 我々には東京近辺の会社に人気があった。
 毎年一人という当時のトヨタの入社枠で、 卒業論文に"震動解析"をやっていたH君が入社した。 トヨタに行った際はたまに寄っていたが、トヨタ中央研究所の役員現役で惜しくも病死した。 彼は放電加工機の出荷前工場立会でジャパックスに来たこともあった。 その近辺の同窓生たちは、放電加工に対する関心が非常に高く、 後輩T君は後にトヨタ製放電加工電源を造るにまでに至る。これについては後で述べる。
 さて、私が一番印象に残るKさんは、 徳島大学工学部を昭和34年に卒業してトヨタ自動車に入った秀才である。 自動車生産台数の伸びとともに入社試験も難しくなっていったから、 凡庸ではなかなか入れなくなっていた。

 入社して会社になれた頃から、放電加工による鍛造型加工を担当するようになった。 昭和30年代後半だから低消耗電源はまだ出来ていない。 当時、私が最もオーソドックスだと考えていた銅鍛造電極を薦めたが、 彼はそれを一捻りして、銅をキャスティングしてから、 精度を上げるために鍛造型で冷間で型打ちして仕上るという方法を考えた。
 この方法では、電極サイズの同じものしか出来ない。 荒中加工電極は加工条件に応じて減寸してやらねばならない。 減寸量は金型の抜き勾配とも多少関係してくる。 加工能率に関係するので、そのへんのことを二人で詳細に討議したことがあった。
 電極の減寸は硝酸水溶液によるエッチングによった。 有害なガスが出るので実験的なものは容器を屋外に持ち出して行ったが、 数をこなすには不便である。 彼は屋内にエッチングルームをつくった。 当たり前と言えば当たり前だが、エッチング温度や、ペーハーを管理して、 減寸量を時間の関数として正確にとらえようと工夫した人では先人であった。
 トヨタ流ジャストインタイムで、段取り時間の短縮にも数々の工夫を積み重ねていった。 鍛造型加工用放電加工機も日産とほぼ同等の10台くらいまでは並んだが、 その後、愛知製鋼内の知多鍛造部の方に移っていった。

 ところで、当時、私のマイカーは日産サニーだったが、 それに乗ってトヨタの各工場にも技術的なことで何回か行った。 トヨタはどこの工場も足の便利が悪くて、車がないと多大なロス時間が生ずる。 さすがに豊田市内やトヨタの駐車場に私のブルーの日産車は異物が混入した観があって目立った。
 余談ながら、私の日産車にトヨタの社員を乗せてやったことがある。 本社工場で親しくしていただいていたYさんと打ち合わせの後、 堤工場に行く予定があった。 Yさんも堤工場に用事があるから乗せて行ってくれと言う。
 私が日産車に乗っているのは内緒にしてあったので困った。 「実は日産車なんです。」「我々が日産車に乗る機会はあまりないから、 ちょうどいい機会です。」とのこと。 どんなコメントをいただいたかは忘れたが、後にYさんが病気で入院したとき、 仕事の関係抜きでもお見舞いに行かねば気が済まないほど友好的関係にあった。

 そんなトヨタに連日のように入り浸るような機会が突然にやってきた。 ワイヤ放電加工機がまだ出始めの昭和50年代初頭、 名古屋営業所長が病気療養のため三ヶ月ほど休むことになった。 その間、私にピンチヒッターをやれと言う。 私の着任前に療養に入ったので引継ぎも何もない。

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