放電加工補遺物語

− 自動車産業と放電加工[1](1/2) −
 ジャパックス時代に、私もいろいろな会社を訪ねさせてもらったが、特に印象深いのは、ある時期のトヨタ自動車と日産自動車である。昭和30年代の半ばから三次元金型の放電加工に取り組んだ関係で、カーメーカとの関わりが深くなった。しかも、この大手の2社とも直接取り引きを希望されたので、かなり頻繁に訪問した時期もあった。
 その当時は、トヨタと日産が日本のカーメーカとしては、東西の両横綱として、他を大きく引き離していた。その両社が、ある時期から、鍛造型の放電加工に大きな関心を寄せはじめた。
 鍛造型はご承知のように、他の金型に比べると型寿命が数千個と非常に短い。自動車生産台数の飛躍的な伸びに対応して、鍛造型もまた量産の必要に迫られた。外国の文献にも放電加工による加工事例やメリットなどが発表されて、関係技術者を刺激した。
 とは言っても、昭和30年代の半ばには、電極低消耗の概念は全くないのだから、問題も山積で、片手間に出来るほど簡単ではなかった。そんなわけで、トヨタも日産も新進気鋭の若手技術者を専任担当者として、このプロジェクトに起用した。トヨタのKさん、日産のNさんなどである。両方の会社に同級生も居り多くの関係技術者にお会いしたが、このお二人は特別に印象が深い。

 お二人とも、かなり精力的にこのプロジェクトに取り組まれ、社内に放電加工のシステムを築き上げて行かれたが、当時の二大メーカの技術動向として、他のカーメーカや関連産業に与えた影響は大きい。三次元金型放電加工の先駆者として普及発展に貢献されたと言える。
 日産自動車のNさんは、たまたま1年後輩の東北大工学部32年卒の東北人で大変仕事熱心な人であった。放電加工の電極が最も問題だった時代、電極に良いものがないかと、同窓のよしみで一緒に探しまわった。千葉県のメタライジング屋に行ったり、ある時は、埼玉県の同窓の池上金型に電鋳で電極が出来ないか相談に行ったりした。
 結局は、独自の自社製亜鉛電極製造機をつくった。亜鉛合金をキャスティングしプレスして電極をつくる機械である。昭和30年代末ジャパックスでつくった亜鉛合金低消耗アダプタと言うのがあり、それを活かそうというのである。
 今は知らず、当時は鍛造型の精度チェックには、キャビティに溶融した亜鉛合金を流して反転モデルを作り計測する方法があったから、その応用から発展させたようなものと考えてよい。
 低消耗アダプタと言っても、亜鉛合金では20〜30%の消耗は避けられない。併行して、銅鍛造電極やグラファイト電極の検討、試作もはじめられた。その頃、本田技研系の角田鉄工などでは、銅鍛造電極でほぼ成功していた。その情報はもちろん伝わっていたが、鍛造機が生産に追われているので、他の手段がないかと言うのが会社としての方針だとか聞いたように思う。

 余談ながら、この4月にインターモールド(国際金型加工技術展)を見学した。日本金型工業会共同出品ブースの一隅に、銅鍛造電極により放電加工したロッカーアームの鍛造型が展示してあった。未だにこの方法が生きているのには感心した。
 いろいろやっているうちに昭和40年代に入り、電極低消耗電極の時代に入った。日産自動車の鍛造金型製作工場には低消耗電源も含めて、少し大きめのジャパックス放電加工機が10台以上並ぶようになった。ジャパックスのリードで設備して来たのは実にここまでであった。
 トヨタからはカローラ、日産からはサニーが発売され、本格的なマイカー時代を迎えて、生産設備の増強が急がれた時代である。 
 余談ながら私は昭和42年に発表後間もないサニー1000を買った。Nさんから熱心に勧められたこともあるが、私が住んでいる神奈川県には日産系列の会社が多く、日産車でないと構内に入れてもらえない。トヨタのように構外に駐車場があればいいが、駐車場が構内にしかないところが多く、日産車で行かないと置き場がない。
 このサニー1000にはトルコンを付けてもらって気に入り愛用したが、まだ低排気量トルコン車は珍しいケースだった。この年オーストラリアに出張し、向うで乗せてもらった車がほとんどトルコン車だった影響である。

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