放電加工補遺物語

− 放電加工技術の普及発展に貢献した人たち[2](1/2) −
 何事でも初回が印象に強い。30期まで続いた未踏加工技術協会の放電加工技術通信講座もしかりである。 昭和47年スタートの第一期は、受講者数60名超という盛況であった。 その後は定員をしぼったので第一期のみは例外的に多かった。
 その中には、日本電装(現デンソー)の井野登志雄さんのような初期の頃から放電加工をやっていたベテランの顔も見える。 講師側に居てもいい人であろう。

 このような人も遠隔地から応募するのは、それだけ放電加工技術の奥が深いことを示している。 産学両側から放電加工の理論も確立されつつあったが、まだまだ学ぶべきことが多かった。
 それぞれの放電加工機メーカで、ビギナー用の講演会は行うが、 固有のハードウェアについての説明とか操作実習などに時間をとられ、 加工技術の説明やその考え方に関しての講習は不十分であった。
 それに加工技術の本質を習得するにはそれなりの期間がかかるので、 使うのが本業ではないメーカの講師の育成にも限界があった。 遠くさかのぼって放電加工技術研究会設立の趣旨も 加工技術面でユーザとの強力関係をつくろうということにもあったのは前に述べたとおりである。

 その頃は放電加工のアプリケーションも多様化してきたので、 メーカに対しても、中級、上級レベルの講演会を望む声が大きくなってきた。 しかるに前述の理由などでメーカ単独では開催する自信がなかった。 この通信講座はそんな希望者に対応した。
 その第一期通信講座の添削問題で1番の成績だったのが前記デンソーの井野登志雄さんであった。 氏も放電加工技術の発展に貢献した一人なので、私の知れる範囲で述べておこうと思う。 何しろ放電加工技術関連金型分野で技能の達人"現代の名工"なるものに選ばれた人である。
 名工と言われるくらいだから、才能もさることながら、現場から叩き上げた努力の人である。 何でも企業内学校で養成工として教育を受けた第一期生であるとのこと。 昭和30年代の半ば、納入した形彫り放電加工機の技術指導に私が行ったときのまだ若きオペレータであった。

 余談ながら、刈谷のデンソーには私なりの特別な懐かしさがあった。 学生時代の卒業旅行を兼ねた会社見学で訪問した最初の会社だった。 完成した白色のデンソー洗濯機が何十台も並んでいるのを見て、 家電メーカのような錯覚を起こしたものである。
 その次に見学したのが当時は挙母市のトヨタ自動車で、 乗用車月産3千台目標という話を聞いたのが昭和30年のことである。 その昔はトヨタの親会社だったという豊田自動織機も見学し、 その寮にただ同然で泊めていただいた。先輩諸兄のご厚意である。
 当時、私らの学舎の大学院で学んでいた先輩に豊田章一郎氏(元トヨタ社長、前経団連会長) が居られ、同じ昭和30年に工学博士の学位をとられた恩恵があるいはあったかも知れない。 因みに研究されたテーマは"内燃機関用の噴射弁"である。 その方面には棚沢泰先生という権威が居られた。
 井野さんとの初対面?では、いろいろ放電加工の話が尽きることなく、 また鄙びた刈谷の田んぼのそばの焼き鳥屋で夜更けまで熱心に話をしたのを覚えている。 ともあれ、養成工から、大手の学歴社会の中で頭を出して行くのに、並々ならぬ努力をされた。

 そんな努力が、通信講座の添削問題(論文形式7講師分)でも他を引き離しての1番だった。 講師も脱帽のパーフェクトで、一つ一つの努力の積み重ねで認められていったのがわかるようである。
 井野さんは、後に労働省所管の放電加工技術検定中央委員を委嘱され、 技能オリンピックにも関わられた。その役員として訪欧されたりしたが、 その頃が日本の金メダルも最高ではなかったかと思う。その後は発展途上国の追い上げで、 メダルは減少の一途であるが、日本の高学歴化と、ものつくり空洞化現象のあらわれで、 当然の成り行きであろう。

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