形彫り放電加工は如何にして育まれてきたのか?

佐々木和夫

7.コンデンサ電源時代の底付き型放電加工
 昭和34年、三次元形状の放電加工に本格的に取り組むことになった。当面のターゲットは、三次元金型でも一番加工しやすいと思われる型鍛造用の金型の加工である。約100%も消耗する黄銅電極で、底付き型を加工するなどは、トランジスタ電源しか経験のない今の若い人には想像が付かないかも知れない。どうやってこの消耗の問題を克服して行くかが実用化の課題である。
 この時期、日常のサンプル加工とか、技術指導・講習会は、東京晴海の常設展示場の一角を借りて行われていた。長は二村さんで、町田さん、荒井さん(ジャパックス大阪勤務中に病没)らのグループである。当時、営業拠点である池貝本社が港区・三田(JR田町駅下車)にあったから、溝の口よりは便利な場所として選ばれたと思うが、詳しくは知らない。

 鍛造型の最初のサンプル加工は、いきなりトヨタからの実型(実際に使える型)であった。こんな分厚くて重い金型の加工は初めてのことであった。D−500型なる機種が出来るまではやりようがなかった大きさである。当時の大型機種と言えどもこのような物の加工に必ずしも適しているわけではない。
 ワークが何百キロもあるので、放電加工機の作業台上にクレーンで吊り降ろさなければならないが、加工ヘッドがじゃまをして真っ直ぐには降ろせない。手で奥に押し込みながら、降ろすことになるが、ワイヤが干渉してままならぬ。またワーク厚が400mmもあると、その上面のケガキなど見ながら、左右ハンドルを操作するなどとても出来ない。

 加工槽深さ500mmで400mm厚の荒加工はかなり厳しいので、目を離すのは心配である。と言うように問題いろいろありなので、鍛造型加工用に、大小2機種の機械を設計試作することになった。
 このトヨタからの実型サンプル加工、恥ずかしながら、鍛造型の勉強不足で、余分な手間ひまを掛けたが、一応使える物ができた。ギヤブランクの鍛造型であったが、支給された別電極で加工した一番外側の円の同心と深さのバラツキに悩んだら、それは「バリ逃げで、大勢に影響ない」とは何たる勉強不足。
 最初の加工なので丸物を選んだ。丸物は中心からの加工液フラッシングが理想的なので、放電加工は比較的やりやすい。電源はフルパワーで毎分3gくらいの能力しかなかったのでムクからの加工には計算上からも結構時間が掛かる。もっとパワーの大きい電源を作ることも必要になった。

 当時のトヨタの担当課長は後に副社長にまでなった大先輩の楠さん(トヨタ退任後日野自動車社長・会長)その下に同級生の細野氏(トヨタ研究所の取締役で病没)も居て、その後、納入機の立ち会いなどで来社した。特に先輩後輩の多いところで、余談だが、後にトヨタ製放電加工電源をつくったのは後輩のT氏である。「勉強用に作った」とは言うが、設備させられた関連企業は、後の人事異動によりメンテ体制がくずれてしまい困ったようである。

 トヨタのサンプル加工以後、日産、いすず、ホンダ他関東一円の鍛造業界からのサンプル加工が続いた。営業のPRのせいもあるが、外国からの資料にいろいろメリットが取り沙汰されはじめ、外国に遅れじという機運があったかも知れない。プレス抜き型では日本の技術も世界に負けないものがあったが、三次元の加工では後塵を拝していた。いずれにしても、一番大きい問題は、電極の供給である。取り敢えずは鍛造でつくった電極の複数個使用による方法である、これが思ったほど簡単ではない。精密鍛造と言うほどの技術ではないから、寸法精度のバラツキが以外に大きいのである。曲り、反り、捩じれ、グイチ(上型・下型の食い違い・・電極として使用する反対面を電極保持基準とするため、グイチがあると位置のズレを起こす)などがあり、特に仕上げでは、当たりが変わって来て、多大な時間ロスを生ずる。放電加工の仕上げも前段条件の加工面を均一に除去するのが理想的ではある。

 鍛造電極の精度を上げる実験は、我々のところでやりようがない。業界に任せるしかないが、ホンダ関連のK鉄工などにより、いろいろと改善が為されて、可使用電極の歩留まりも大幅に向上していった。しかし、ラインに入っている鍛造機を電極製作のために止めたくない。鍛造型製造のみの企業なので鍛造機を持っていない。などのことから、別の製作方法についても検討して行く必要があった。候補はいろいろ上げてあったので、実験をして行くのみである。銅電鋳は時間が延々と掛かって仕掛り時間が長すぎた。池上金型ではニッケル電鋳で金型を作っていたが、我々の作る電極は最終目的物にあらず、しかも、何個も消耗してしまうのである。とても採算が合いそうもないので、次は銅のメタライジング(溶射)をトライしてみることにした。先ずは銅のメタライジングを専業としている業者を探して勉強に行った。ガスで溶融するメタライジングと電弧(アーク)で溶融するメタライジングとがあり、ガスの方が電極としての結果は良かった。しかしガスの方が高温で、母型として樹脂型は使えず、金型を使う必要がある。金型を加工するための電極製作に金型を要することは矛盾であった。やむを得ず、質は少し落ちるが電気式によることとした。

 千葉県の業者の協力で、電極製作装置としての商品化までやったが、長期間(と言っても約10年)メタライジング電極を使われたのは、N金属1社くらいであった。タービンブレードの鍛造型加工用電極として使っていたが、トランジスタ電源時代になり、加工法についての考え方も変わってきた機会に変更された。
 話題換わって、三次元加工に専念していた昭和34、5年。入社以来お世話になっていた二村先輩が独立すると言う。そうなると、遅かれ早かれ晴海でやっていた仕事が逆流してきそうである。(事実そうなった)それはともかく、放電加工業をやるのに、適当な場所はないかという相談を受けた。たまたま婚約中だった家内の実家の土地に「空き家」があると言うので紹介したのが、「放電精密加工研究所」の発祥の場所となった。その後、すぐ近くに我が家を立てたので、否応なしに近所付き合いとなった。

 鍛造型加工用として試作していた放電加工機も、ぼつぼつ出来てきた。D−306HとD−610Hの2機種である。大型のワークに対応しやすいような構造にしたのが特徴である。簡単に言えば、今までのX−Y座標テープ方式をやめて、300の方は電極側を移動させる構造とし、600はD−610H、Xはワーク側、Yは電極側移動とし、ヘッドを大きく後退させることが出来るようにした。今までのパターンを大きく変える試みだが、ヘッドの剛性を軽視し、クイル方式にしたのが問題で比較的短命だった。この新機種を含めての一連の納入・検収・技術指導も私の仕事の一環なので、納入先を訪問することが多くなった。

 その中で、特に印象深い一つを参考に取り上げてみましょう。滋賀県のG鍛造にD―306Hが納入され、検収・技術指導に訪問した。戦時中疎開工場とかで甲賀の里にあった。実際の鍛造型の加工を技術指導を兼ねて行い、約2時間で終了した。EDMがまだ珍しい時代で、見学者も大勢いたが、その一人が「2時間なら今までの方法でも出来る。電極作りなど余分な手間を掛けて何のメリットがあるんだ?」自分の仕事をEDMに取られるのではないかと心配で見に来たらしい雰囲気である。
 「ワーク材の硬さに影響されない加工法だから、硬い材料に有利」と言ったが、その後、上記の型がプレス鍛造型に代わり、硬度を上げたら従来の加工法では8時間掛かるようになったと言うから、大いにメリットを発揮したというわけである。

 その日の夕方から雨になり、前夜泊まった京都の旅館まで帰るのが大儀になった。検収は明日までの約束になっている。そこで、現地に泊まることにし、近くの旅館を紹介してもらうことにした。それからのことが印象に残ったのである。旅館まで車で案内すると言う。雨降りなので有り難いと思ったら、従業員のバイクが止まり、後ろに乗れと言うではないか、車には違いないが、雨降りには適していない。おまけに泥道なので、ハネの上がることおびただしい。着いた旅館がすごかった。ガタゴトの戸を開けてもらったので、入ろうとしたらリヤカーに足をぶつけた。物置みたいで足の踏み場もない。2階だというので、階段を上がろうとしたら、スリッパはないし一面の埃である。爪先立ちで部屋に入ったが中も状況にあまり変わりはない。鮭缶の形を保存したままで皿に載せてあるのをメインデッシュにした夕食を済ませたら、他にやることがなくなった。床の間に碁盤がある。良いものがあると思ったが、これまた埃まみれで触る気も起きない。それにしても昨夜の京都の宿とは「天国と地獄」。昨夜は、部屋もきれいだったが、おかみさんの和服姿も素晴らしかった。キャンセルなどしないで戻るべきだったかと思っても後の祭り。甲賀巻なるお菓子でも食べて寝るしかない。

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