形彫り放電加工は如何にして育まれてきたのか?

佐々木和夫

1.放電加工との出会い
私が放電加工なるものと初めて出会ったのは、学生時代の昭和29年頃のことである。勿論それまでは不勉強にして名前すらも知らなかった。ある日の夜、仙台駅に近い我が家に、いとこである東京工業大学の若き講師丹羽先生(故人、後に防衛大学校教授)が訪ねてきた。今度、東工大に放電加工機というものが入る。小さな雷を次々に落として、どんな硬いものにでも穴があけられる革新的な技術だ。」この話で初めて「放電加工」になる名前を知った。「将来必ず発展する技術と思うから勉強しておいた方がいいよ」とも言われたかと思う。

 この年、東京工業大学に入った放電加工機が、池貝鉄工内日本放電加工研究所(後のJAPAX、昭和28年7月創業)製の市販汎用放電加工機の第1号機である。後に廃棄処分になるところを拾い上げてきて、金粉などを塗り、社内に飾っておいたから、読者の中にはご存じの方も居られると思う。
 あの機械がなければ、私は別の会社人生を歩んでいたはずであるから、このYJS短信に原稿を書くようになるはずもなく、どこにどうしていたのでしょう?
運命のようなものである。

 ともかくいとこが、大変な新技術のように吹聴するもので、大学の図書室に「放電加工」の文献をあさりに行った。そこで、ヨーロッパの技術雑誌(名前忘却)に一つの論文を見つけた。辞書を引き引き読んで見て、放電加工なるもののアウトラインは理解できた。アーヘン工科大学のオーピッツ教授の論文だったと思う。
 昭和30年、卒業旅行でもある会社見学旅行があった。関東地区では「シチズン時計」か「池貝鉄工」かの2社択一である。「放電加工」が頭にひかかっていたので、少数派の「池貝鉄工」を選択した。そこで初めて放電加工なるものの火花にお目にかかることとなったのである。
 引率の教授の指示で、我々池貝鉄工見学の10名は、南武線溝の口駅に定刻までに集合した。

 当時はまったく粗末な田舎の駅舎である。余談ながら、今は昔の面影のかけらもなく、見違えるような大都会風の駅前に変貌してしまった。
 池貝鉄工見学の最後の最後に、案内してもらったのが、池貝鉄工・工場敷地の片隅にある子会社「日本放電加工研究所」である。と言っても、傾きかけたような木造の一棟のみで、外のトイレに行く草むらには蛇が居るという話であった。大きなビニールシートの用意が雨漏り対策用であることは後日知った。
 一番奥の一室で、放電加工の実演を見せてくれるということであったが、製品の放電加工機らしいものはなく、機械らしいものはボール盤のみである。このボール盤にリード線やら、なにやらがいろいろと着いている。ドリルの代わりには真鍮棒が着けてあり、載物台には空き缶に油を入れたものが置いてある。その中にワークである鉄片が置いてあるのが見える。

 説明兼実演者が、マニアルのハンドルで電極をワークに徐々に近づけて行き、ほぼ接触したかと思われたときに、パチパチと火花が飛んだ。不完全接触の接点で飛ぶ火花と同じものであるから、火花そのものは珍しくも何ともないが、それの継続によって、鋸刃などに空けられた穴のサンプルには少々感心した。
 ともかく、これが放電加工機ならぬ「放電加工」の火花との出会いの初めではある。と言っても将来、放電加工の世界に入ることになるなどとは、この時点では夢にも考えてはいない。帰路、溝の口駅で、友人達とこの田舎の駅にまた来ることがあるかな?などと言いながら、それぞれの方向に別れたのであった。

 因みにその秋、主任教授の奨める東京の狛江市にある航空計器メーカの就職試験を受けた。ジャイロとか飛行機操縦のシュミレーターなどを製作している会社で、メカニズムをやるつもりであった。その会社の試験にどういうわけか「放電加工」が出たのである。これ幸いと今までに知ったことを余白が足りなくなるほどに書き並べたのでした。せっかく採用してくれたこの会社に3ヶ月で別れを告げ「放電加工」の世界に入ることになろうとは、まったく思ってもいないことだった。日本放電加工研究所も創業3年目にして、放電加工機が売れはじめ、人手の確保に乗り出していたのであった。

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