続・形彫り放電加工は
如何にして育まれてきたか?
佐々木和夫
●NC放電加工機時代の幕開けの続き

 放電加工の電極は形状も大きさも千差万別である。単位面積当たりの平均電流値を10Aくらいにしなさいとか言っても、加工面積の変化を人間が見ていたのでは無人化できない。そこで、自動的に加工面積を検出する方法が考えられた。検出した加工面積の変化に対して、電流値を自動的に加減して電流密度を極力一定に保とうとするのである。
 しかし、それだけでは異常放電に移行することを防げない。個々の放電波形から正常放電か異常放電かを判別する技術が開発された。要するに極間に滞留する加工屑が許容量を越えると異常放電の比率が増えるので、電極ジャンピングコントロールの条件を変化させて対処してやろうと言うのである。
 そのようなことをいろいろやっても、異常放電に移行してしまったら、加工を止めてオペレータに知らせるしかないが、それが頻繁に起こったら無人化が出来ないので、技術的に結構奥が深いのであった。

 安全性を高くすれば、能率が悪いと言うクレ−ムとなり、能率を上げようとすると、異常放電のリスクが高くなる。この間のことをいろいろ長いことやってきた放電加工の開発技術者たちが何人も居る。
 しかるに、この業界に新たに首を突っ込んだ人達は、そのへんの事情をほとんど知らず、パルス波形が出来れば、放電加工電源が出来ると思い込んだりするから話が面倒である。30年、40年とやってきたメーカーと同じものが、そんなに簡単に出来れば苦労しないが、話しても簡単には理解できないようであった。
 無人化指向の他に、非熟練化指向もあり、操作簡単も要望の中にあった。ジャパックスの電極低消耗電源が、ピンボード方式、押しボタン方式と操作簡単なものから、ごく一般的なノブ方式になったので、戸惑った人達からの声でもあったと思う。

 その要望に応えて、欲しい面粗さや必要とするオーバーカットを選択する方式の制御ユニットが商品化された。マイセルとか名付けられたが、若干結果の信頼性に欠けるところがあって、評価はいま一つだったように思う。
 確かにNC化によって、操作習熟度による差はかなり小さくなっていった。ある放電加工専業会社のベテラン社員が、「私が二十年近くかけてやってきたことが、NC放電加工機では新入社員でもできる」と嘆いた。かくして汎用機との能力の差はしだいに歴然となっていった。
 一方ではワイヤ放電加工機が、プレス型のような貫通する金型の仕事をほとんど吸収してしまったので、形彫り汎用放電加工機の需要は先細りが明らかであった。要するに汎用機の需要は減退し、NC化時代の到来である。

閑話休題−その2−


 時々読者からのご感想が寄せられるが、「もう少し突っ込んでは如何?」とおっしゃるのが複数あった。技術面ではない方である。上っ面だけなでているのにはご不満なのであろう。私も書きながらちょっぴり悩ましいなと思うことはある。
 この位までなら書いても許される範囲だろうなどと思いながら、恐る恐るひとの悪口めいたことを書いたりすることがある。大体、人を悪く書くなどは良い気持ちのするものではない。本来、この題目の趣旨は、技術的な面を書こうとしたもので、人間模様を書くのが本旨ではなかった。また書ける能力も自信もない。
 しかし、読者の興味のありようもわからんではないので、技術面にあまりこだわらない書きようをしてみようかなと思いはじめた。たまたま本号が「続の10」なので、この題目は今回までとし、次号から替えてみようと思う。

 話の展開は、今ちょうど昭和50年代の半ばに入ろうとしているが、ちょうどこの時期に、分不相応な5階建て本社ビルが出来た。延べ床面積2,600坪というもので、建築費もさることながら、維持する諸経費も大変である。一方では社員50人体制を唱えているのに大変な負担であり、矛盾でもある。
 その頃、私は大阪営業所に勤務していたが、営業所は岡谷鋼機大阪支店の1階に間借りしていた。岡谷の温情にすがって置いてもらっていたようなものだが、こんな立派な本社ビルができては、いつまでも甘えていられないので、土地探しなどをはじめた。
 本社ビルが完成した確か同じ年の日刊工業新聞に、「放電加工機業界で、三菱電機がついにジャパックスを抜いた」という意味の大きな記事が載った。その前から、雰囲気的にはあやしくなっていたが、お客さんにはシェアトップと言い続けていたのである。
 牧野やソデイックの新興勢力にもシェアを取られ、この辺を境にしてジャパックスは右肩下がりの一途をたどって行く。この事情をまあまあに書ければ、他山の石とも反面教師ともなろうかと思うのである。もっとも、下手な文章など書くまでもなく、他山の石の役割は立派に果たしてきたようである。因みに「他山の石」を辞書で引くと「よその山の粗悪な石でも、自分の宝石を磨く役には立つ」とある。その意から、「自分より劣っている人の言行でも、自分の知徳を磨く助けとすることができる」と書いてある。
おわり

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