続・形彫り放電加工は 如何にして育まれてきたか? |
佐々木和夫 |
●NC放電加工機の開発 |
UF電源の出荷が順調に伸びていった頃である。私はある会社の応接間で、大小いろいろあるプリント基板を眺めながら考えていた。この会社T製作所は、東京都下にあるプリント基板の金型を設計製作する会社であった。 T社長の要望は、丸穴以外の形状の穴を放電加工で無人で加工したいと言うのである。汎用放電加工機は、S電機のものが数台あり、急ぎの場合は徹夜で加工することもあるとのこと。丸穴は、特別仕様のM製作所製のNCフライス盤で、ダイ、ストリッパー、ポンチホルダーの3枚セットを同時に無人で加工していた。1台にヘッドが三つ付いている特別仕様の機械である。 先方の理想とするNC放電加工機も、3ヘッドで3点セットを同時に加工すると言うものであった。ごく簡単に言えば、メカの方は、フライスのヘッドが放電加工のヘッドに置替わればいいのである。 余談ながら、フライス盤で金型業界を席巻したM製作所が、当時本格的に放電加工をやっていたら、ベースマシンがあるだけ有利であるが、放電加工機を昭和38年かの大阪見本市に出品して以来、ペンデイングとなっていた。なお、その出品機は、私の従兄弟の丹羽当時防大教授が顧問となってから製作し出品したものだった。 我々も、NC座標テーブルからつくる余裕も力もないので、ベースマシンを同じJMDグループ(日本工作機械第一グループ)の浜井産業のフライス盤に想定し、メカのほとんどを一括してお願いしようと言うことになった。 ただ、電極自動交換装置とツーリングは、我々で構想をまとめざるを得ない。当時、世の中にほとんど前例がないので、放電加工をある程度知らないと設計が難しい。私がユーザーのところで思案していたのは、このツーリングのことであった。電極には鉛筆のような細長いものが多いため、既存のイメアシステムや、システム3Rはほとんど考えなかった。 ところで、当時の技術部は、部長が豊島さん(故人、取締役で退任し、エドマス顧問)私は次長で、課長が城さん(現ヒロエンジニアリング代表)であった。3人で相談し、方針を決め、最初だけは3人雁首そろえて浜井産業を訪問した。 浜井産業は当時技術トップは中川専務、取締役技術部長は小山田さんだったが、ともに先輩で何かと親近感があった。後輩の頼みではやむを得ないと思ったかどうだか、ともかく、こちらの案で引き受けていただいた。これを皮切りにして、当時、五反田の本社工場にはずいぶんお伺いすることになった。後日、ワイヤ放電加工機もお願いすることになったのである。 最初のNC放電加工機は、かくして浜井産業のNCフライス盤がベースになったが、大きな改造をしない方針でゆくと、ユーザー希望の3軸は難しいので、2軸で勘弁していただいた。2軸と言っても、中心にサ−ボヘッドがあり、治具によって電極ホルダーを左右に振り分けたものである。 電極自動交換装置は、あれこれ考えられたが、現在のイメージのものとはかなり違うものになった。電極ホルダー用のストッカーを加工槽の奥側に置き、加工ヘッドが取りに行くようにした。実際はXーYテーブルが動いてくるのであるが、そう表現した方がわかりやすいかと思う。テーブルストロークの関係で、電極は12本までである。 NC放電加工機であるから、当然NC制御装置が必要であるが、浜井のNCフライスに使用しているものをそのまま採用した。当時富士通の商品名ファナックである。駆動モータも富士通のパルスモータであった。 加工電源はもちろんUF電源であるが、完全に無人無調整なので、標準仕様のままではなく何かアダプタをつけたようだが、内容はよく覚えていない。メップに頼りきっていたのかも知れない。 細かいことはいろいろあったと思うが、大きいトラブルもなく、出荷可能段階までこぎつけた。それでも約束納期にはかなり遅れてしまったので、残念ながら、ジャパックスの工場を経由しないで、ユーザーに直接搬入することにした。 最終調整段階で少し困ったのは、ジャパックスにNCテープをつくれる要員がいないと言うことだった。今考えると嘘のような話であるが、そんなことでもたついたりしたのである。そのため、せっかくのNC放電加工機第1号であるが、浜井から直送したため、関係者以外は現物を見ていないまぼろしのような機械とはなった。 余談であるが、ジャパックスにもNCテープをつくれる人が必要だとなり、最初にファナックNCスクールを受講しに行ったのは現YJSの福田さんだったと思う。ワイヤ放電加工の開発段階でもあった。 ともあれ、この手塩にかけたNC放電加工の第1号機、嫁入り間近になって、嫁入り先の工場が狭くなって困った。増産ムードで設備を急激に増やした結果である。S電機の放電加工機が1台、屋根があるだけの駐車場にはみ出していた。 結局2階の事務所をつぶして入れることになり、ベランダに吊り下ろして引き入れるという1号機にしては散々なお嫁入りになった。おまけに事務所の天井が低いので、ヘッドの部分だけ天井に穴をあけて突っ込んだから、ねずみが居たら驚いた。 この嫁さん、時々駄々をこねたが、昼夜を分かたずよく働いて、日に日に評価を上げていった。何しろそれまでは、特に徹夜のときなど、眠い眼をこすりこすり、電極を交換し、位置合わせをし、寝ぼけて間違わないように、神経を使っていたのだから、ずいぶんラクになったものである。 そうは言っても今はNCの方が普通になって、それ以前の機械などほとんどなくなったから実感が沸かない人が多いと思うが、それも時の流れではある。いろいろと便利になってしまって、その有り難さなどは忘却のかなたに去って行った。 この会社の後日談であるが、設備投資が少々過剰で、オイルショック後、経営があやしくなり、設備のかなりを処分するなどのリストラクチュアをやる羽目になったが、このNC機だけは一番最後まで残したいとか伝え聞いて嬉しかったのでした。社長も兄弟に代わったりして危機は脱したが、最近のことは知らない。 このへんで、ジャパックスの経営の方にも目を転じてみよう。金子社長体制になってから、IJRとの関係が、少々ぎこちなくなってきた。経理畑の人なので、両社間の金銭の授受にルールを明確にしようと思ったようである。 研究とか開発の委託と結果の評価は、物品の売り買いと違って評価判断が難しい。ましてや技術をほとんど知らないと言う人には説明が大変である。間に入った人達が困ってしまった。私もその一人であるが、検収を上げる上げないで、もめるようなことがあった。その調整役は、もう一人の役員である清田さんにかかった。 金子社長になってしばらくして、社長身辺の良からぬうわさ話が流れた。お気に入りの人だけ引き連れて豪遊したとか、ある女性とあやしいとか、よくある話しであるが、火のないところに煙は立たないと言うこともある。野次馬は普段の行いで見当をつけるものだから、普段の行状が大切ではある。公費流用か何かが致命傷になった。 そんなわけで社長としての足場が固まらないうちに崩れてしまった。実力者は当時会長の岡崎さんであり、筆頭株主は池貝鉄工である。お気の毒ながら、そのへんにサポートしてもらうだけの力量も実績も未だしだったように思う。大林社長の急死、一人飛び越えての突然の社長だから、体制整備の時間がなかったと言えなくもない。外向きには健康上の理由で退任ということになった。 結局、社長には井上さんしかいないと言うことになった。井上さんは、岡崎会長にさかんに「社長には不向きだし、やりたくない。」と辞退していたが、岡崎さんも、井上さんのような強烈な個性の人と一緒にやれる人は思い付かなかったかも知らん。二村さんはじめずいぶん辞めていった。 そんな訳で、極言かも知れないが、ジャパックスは経営者の居ない会社になってしまった。井上さんは相変わらずIJRにいる方が多いので、残る常勤取締役は清田さんのみとなり、気ままな振る舞いが増えていったように思う。 人を誹謗するようなことは書きにくいので、直接の関係はないが、以下にこの前亡くなられた作家三浦綾子女史の言葉を拝借して置こう。 「自己中心」の尺度で、ものごとをはかる限り、自分は悪くはないのである。なぜなら、それは、「自分のすることは、そう、悪くはない」というものさしだから。 それどころか、 「自分のすることはすべてよい」というものさしをもっている人さえいる。 |