ある放電加工機メーカの落日[5]
5. 大企業と中小企業との同居
 大企業に長年居た人と、中小企業で育った人とでは、考え方がかなり違う。それをうまく統御出来る求心力のある人が居なければ、社内がバラバラで、力が発揮できない。
 岡崎社長は、早期に新日鉄に資本参加してもらい、社長を引き継いでもらいたい意向であったが、それがなかなかスムーズにはいかなかった。富永副社長以下のスタッフからの新日鉄本社への情報が、思わしいものではなかったのであろう。それでなくても大手企業は決定に時間がかかる。その間に、主力商品であるワイヤ放電加工機の製造を、新日鉄の戸畑工場に移す方針が実行され始めた。J社機の製造に協力していた浜井産業や遠州製作所に与えた影響は小さくない。

 浜井産業は自社ブランドの製品をつくるとということで、日本鋼管との資本提携を発表した。鉄鋼関係会社が、いろいろな副業に手を出した時期で、超大企業が椎茸栽培をやると言う話まであった。放電加工機製造の経験を活かそうと言うのか、遠州製作所にはS社の資本が入った。
 営業面での協力ということで、新日鉄系の商社、日鉄商事が入ってきたり、グラファイト電極を開発したいというので、新日鉄化学が参入してきたり、新日鉄釜石工場のひと隅では、放電加工の賃加工屋まではじまった。しかし、残念ながら大概うまくいかなかった。例えば賃加工屋である。実際に加工に携わる人達は、未踏加工センターに実習にきたが、個々には真面目で優秀である。彼等にかなり任せられれば、まあまあやれるのであろうが、大会社の組織があり長がいる。その長なる人と何回か話したが、放電加工については、わずかな耳学問だけで、実機には触ったこともない。ミクロンの世界に恐れをなして、簡単に言えば、「少し、精度のうるさいものは、失敗するのが心配で、仕事が受けられない。」のである。脱サラした賃加工屋さんだったらすぐ干上がってしまう。そんなに心配なら、最初からやらなければ良いが、この事業をやろうと決めた人と、やらされる人とは違う人だから何とも悩ましい。命令されて、嫌々やってもうまくいかない事例は世の中に沢山ある。その長なる人がいなければ、まだ、ましな展開が出来ると言う声もあったようだが、組織がある限り、なかなか破れない壁ではある。この賃加工会社は、仕事が思うように確保できず間もなく解散した。

 J社に戻って、プロパーの中には、新日鉄が金だけ出してくれて、人も口も出してくれるなと言う人もいたが、あわよくば、受け皿企業の役割もやらせようと言うのだから、そうはいかない。人も口出しもしだいに多くなってきた。
 新日鉄の資本参加決定に予期せぬ時間がかかり、ご高齢の岡崎さんは、しびれを切らしたと思うが、平成元年になって、やっと決まった。新日鉄24%、三井物産12%、協和銀行(当時)5%の合計41%の出資である。資本金1億円だから、大会社にしては軽い負担だったと思う。
 併せて、新社長になる人も発表になった。東大では富永さんの3年先輩に当たる32年卒の野明さんという人で、新日鉄での職位は、同じ副事業部長である。役員クラスを期待した人も居たが、そこまでJ社に力を入れる気はなかったように思う。

 新社長が決まり、富永副社長と、三栖専務は退任し、岡崎さんは相談役に戻った。約2年経っており、岡崎さんは92才まで社長をやられたことになる。90才を超えられた社長はおそらく前代未聞であろう。
 新社長の就任挨拶が、全社員を5階の大講習室に集めて行われた。ちょっとユニークな挨拶であった。詳しくは覚えてないが、要旨は「トップにはなりたくなかった。二番手が、責任も軽く気楽でいい。」と言う本音の告白と、建て前は「望まざる社長の座だが、座らされてしまったので、皆さんの協力で、何とかやらざるを得ない。」と、そんな印象のものだった。中小企業の社長は、社員の先頭に立って働かないといけないのに、元気の失わせるような挨拶ではある。

 それにしても、本音はなかなか言いにくいものだが、正直な人ではある。東大法学部と言う学歴が重荷で、もう会社内には、居場所がなくなったのであろう。大企業の学閥社会では、先輩を後輩の下位に置くことはできないようで、役員コースから逸れた人は、外に出るしかないようである。
 その点は中小企業は弾力性がある。実力重視の世界では、上司と部下の逆転例は枚挙にいとまがない。高卒の人が、10才以上も年長の東大卒を部下に持つようなことも現実にあった。私も、卒業も池貝入社も数年先輩の元上司を部下にもたされたことがある。大手企業では考えにくいようなことであろう。
 新社長就任前に、社内の要所要所に新日鉄の出向社員を配置し、体制作りは出来た。発言力の強い銀行からの三栖専務を退いたのも体制作りの一環であろう。そこまでが富永さんの役割であったのか、富永さんの社長昇格の予定が、急遽入れ替わることになったのか新日鉄の事情は知らない。

 経営不振に陥った会社の社長を押し付けられた野明さんは、気の毒であったが、一応は先遣の出向社員たちに取り巻かれたかたちで、新体制がスタートした。しかるにお互いの不幸であったのは、野明さんにはかなりの遊びぐせがついていまっていた。お互いの親睦とか情報交換とかの大義名分がある。
 ある週刊誌の取材により、新社長のプロフィールがほぼわかる記事が載った。ゴルフと麻雀はかなり達者なようで、その後カラオケも相当なものであることが分かった。富永さんの真面目な紳士風のイメージから一転して、多趣味人風のイメージに変化した。
 ちょっと横道だが、新日鉄の連中が来てから、当然ながら、彼等の社内報とか関連する連絡資料とかが、社内に流れ込んできた。その中に、新入社員に対する新日鉄社長の訓辞があり、簡潔明解で印象に残った。要点は、「英語を学べ、趣味を持て」と言うのである。国際人であれ、人間性豊であれと言うことであるが、新入社員にとってまことに具体的な示唆である。

 ただ気になるのは、そのような趣味とか娯楽の世界でのゴマ擦り競争である。例えば、温泉麻雀を企画するのも一つの有用な能力であるが、出世の近道とばかり、その方面にだけ皆で精を出すと収拾がつかなくなる。上に立つ人の気を付けるべきことはではないかと思う。私には正直なところ今でもよくわからないが、この体制を敷いた時点で、J社の再建は新日鉄経営陣からも半ばあきらめられていたのか知らん。また、競合各社も、新日鉄による再建は成功がおぼつかないとみていたようである。
 プロパー社員と出向社員との協調体制が、再建のキーと書いた新聞もあったが、長い間、違う世界に居たのだから、これは無理というものである。片方はほぼ放電加工一筋できたのに対し、片方は昨日まで鉄鋼の生産である。放電加工に早く追い付くにはトライアンドエラーだとばかりに、密かにワイヤ放電加工機の試作に取り組んだ人達もいたが、3台も試作して数千万円ものスクラップを残して終わった。
 新聞発表で打ち上げる話だけは景気がいいが、現実は厳しく、ついに溝の口の本社ビルと大阪支店のビルを売却することになった。両方合わせて約90億円になり、金利負担はかなり軽くなるはずである。もっとも代替えの建物を造るので、また資金が必要になる。

 溝の口本社ビル建築後約十年間の暗転ドラマであるが、その頃の強気が災いし無駄金を使い過ぎた。新興競合メーカの抬頭はパテントで抑えられると過信し豪語していたのであるが、ファナックとの特許係争も約10年掛かったから、抑えにならなかった。結果は敗訴であるから踏んだり蹴ったりで、えらい計算違いである。特許による防衛線はあっさり破られた。その間に、他の競合メーカにもすっかりシェアを食われてしまった。特にS社の躍進は目覚しいものがあった。J社が絶好の反面教師である。昭和60年には、すでに売り上げ額が逆転したようで、翌61年の「今年活躍した企業と経営者」の第1位にもS社が選ばれている。しかも早くも東証2部に上場を果たした。因みにその時点のS社の資本金は約26億円で、J社の資本金万年1億円とは差がある。

 新日鉄は、諸々の思惑が外れて、そろそろ重荷になってきそうなJ社を何とか肩から外そうという気になってきたようで、勢いのよいS社などをかなり意識してきたかのようであった。

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