形彫り放電加工は 如何にして育まれてきたか? |
佐々木和夫 |
● 電極低消耗電源とグラファイト(黒鉛)電極 |
海外主張から戻ったら、「会社の雰囲気も多少変わっているかも知れない」と手紙でも予告されていたが、東京PMセンターでは、皆さん朝の出勤が早くなっていた。8時ジャストから仕事を開始するために、7時半頃から朝のミーティングをしようとの神宮司新営業部長(元ソディック会長)の提案が実施されていた。神宮司さんは、7時半前には愛車のアルファロメオをピカピカに磨き上げて、汚い車が来たら洗ってやろうと待ち構えている。車は身体の一部のようなものと、何かに書いてあるのを後日読んだことがある。毎朝タイヤの下まで洗う人は私も初めてだ。 神宮司さんの「全員免許を」の掛け声で、私も車の免許を取る機会を得たが、勿論これは大いに役に立ち感謝している。余談であるが、今私は神宮司さんが「リード機械」として約25年営業していた渋谷の事務所に居り、大家さんとも親しくなったが「7時には必ず来られてました。車もよく手入れしていましたねえ」当時、睡眠は3時間で充分と言われていた人だから何でもないか。 それはともかく、電極低消耗電源時代に入りジャパックスも「GX電源」なるものを発表した。コンデンサ方式の低消耗電源で先に述べたロングパルスと、従来のショートパルスとをワンセットにして、使い分けできるようにしたものである。今のトランジスタ電源のように、オン、オフ、ピークがデジタルで自由に選べるのとは訳が違う。 調整はアナログで、かなり微妙なところがあり、電極を消耗させまいとすると異常放電領域に入るので、かなりリスキーなところがあった。その当時は、ロングパルスに於ける異常放電の経験が浅いので、その対策も不完全なため、避けようとすれば、若干消耗を許さざるを得ないところがあった。何しろいったん異常放電が発生し、電極、ワークにダメージを与えると簡単には回復しないから手間が掛かるし、アイドルタイムが生ずる。グラファイト電極を使用するとその傾向が顕著であった。 ところでグラファイト電極であるが、加工を嫌われて困っていた。会社の方針で工作機械を持たないのを原則にしていたので、全面的に外部に依存していたが、加工を引き受けてくれるところが無いと電極が出来ない。そんな時、板橋にグラファイトを専門に加工するところがあるという情報を得て早速訪ねていった。 工場に一歩足を踏み入れたら、グラファイトの粉塵もうもうで、床にも降り積もっている。機械もさることながら人間の健康が真っ先に気になる。社長が出て来られて「私は20数年、ここで働いていて、健康そのものです」とのこと。この「生き証人」グラファイトの無害であることを強調された。更には「胸の病気の人が治った」とも。切り傷などにグラファイト粉を付けて置くと治りが早いとか言って、指を見せてくれたが「入れ墨」のようになっているではないか。 20数年の実績は説得力がある。従業員数人の定着率は高いとのこと。粉塵の機械に対する影響も気になっていたが、それ程ハイプレシジョンな加工をするわけでもないので問題ないとのことだ。問題は鼻の穴まで真っ黒になることであった グラファイト材独特の加工法をいろいろ見せてもらい、外に出てから鼻をかんでみたら、ティッシュが真っ黒になった。この汚れをクリアすれば、割合、メリットの高い仕事かも知れないなどと思った。グラファイトの加工方法は、金属の加工とはだいぶ違う。標準的な工具以外に、「砥石のかけら」とか、「鋸刃の折れ」とかをうまく使って加工するのである。鋸刃を材料とした総型のバイトで300mmもある丸棒を一気に旋削するなどは、グラファイトならではである。 ともかく、グラファイト材の成形加工については大変参考になった。これを機会に電極加工のお願いをしたり、講習会の講師に引っ張り出したり、グラファイト材加工の普及発展に大いに協力していただいた。実績に裏ずけられた話は説得力ある。 一口にグラファイトと言っても、メーカも種類もいろいろある。統一しておかないとデータが違ってくる。自社の推薦品を決めねばならないが、種々検討の結果、日立化成の製品と決まった。日立グループは東芝グループと並ぶ、当社の最大の顧客と言う理由である。品質面のことは、この段階ではよくわかっていなかった。 前にも述べたと思うが、低消耗電源の他にグラファイトアダプタと言う商品があり、グラファイト電極には結構有効だった。若干のデータも取り、パンフレットも作ったのを機に「グラファイト電極の効果的利用」をメインにした特別講習会を開催した。それが意外な反響を呼んだ。 東京PMセンターの講習室のキャパからして、定員30名としたが2倍を越える申し込みがあり、急遽階下のショールームを臨時講習会場にして実施する騒ぎであった。それだけユーザの関心が高かったとも言える。なお、この講習会は外部講師なども頼んだ関係で有料にすることを試みたが、そのせいで参加者が多かったのではないかと言う説もあった。 グラファイト材を使用する経済的効果は大きかった。その一例は、アルミサッシダイスの加工である。ベアリング部の加工に銀タングステンや銅タングステンを使っていたのをグラファイトに替えたので、材料費だけでも数分の1になり、かつ切削性も良いので加工費も低減した。更に関心を高めたのは、裏逃げ部分のグラファイト電極による低消耗放電加工である。 電極が数%は消耗しても構わない貫通加工は、従来のGS回路やグラファイトアダプタでも、あまり問題なく加工できたが、裏逃げの電極低消耗条件による加工は異常放電が問題であった。 サンプル加工の依頼が入ってきても、悪戦苦闘でなかなか良いサンプルが出来なかった。深い加工ほど、電極を消耗させまいとするほど、異常放電になりやすく、メンテするための「やすり」が手放せない。やすりをかければ形状も崩れるので、良いサンプルが出来るはずがない。 昭和40年から昭和41年にかけて、この種の加工では連戦連敗で、士気にも関わってくる。今までの関係から機械は何とか買っていただいても、買った方がアンハッピーで仕方がない。悪評が口こみで広まっていった。人の口には戸が立てられないから仕方がない。 ジャパックス放電加工機オンリーだったN自動車もM社とか他社の機械を入れ始めた。何回か現場に行ったが、ついに刀折れ、矢尽きたの感があり、異常放電しない良い電源を作るしか名誉挽回の手立てはなくなった。目の前に異常放電の事実を見せつけられ、回避する手段を持たないのである。余談ではあるが、その後もN自動車にはなかなか入れなくなってしまった。 営業の不満の声が聞こえたか、工場から今まで見たこともないような良いサンプルが届けられた。「GX電源」では、とても出来そうもないサンプルである。自社サンプルには違いないから、苦し紛れにPR用に使わせてもらった。それから一騒ぎが起こり、退職者が続出する発端になった。 その出来の良いサンプルというのは、「トランジスタ電源」によって作られたものであった。それも内密に試作されたもので、オーソライズされたものではなかった。井上さんの逆鱗に触れたことは言うまでもない。当時技術の責任者は和泉さんであった。この責任をとらされたかたちで、昭和42年に出向元の池貝鉄工に戻ることになる。約9年間在籍されて私も大変お世話になった。 最大の競合メーカであるM社はトランジスタ電源を開発発表し、業界での評価を急速に盛り返してきた。正直、昭和30年代、コンデンサ電源時代は、かなり大きく水を開けていたが、40年代、トランジスタ電源時代になってから、急速に後に追ってきた感じである。「特許使用料を払ってトランジスタ電源をやるべきではないか?」と言う声も社内から聞こえ始めた。 当時会長だった岡崎嘉平太さん(故人)の「日本は資源のない国である。頭脳を売って食べて行くしか生きる道はない」これが会社の基本方針であり、いろいろな場面にこの考え方が表れていた。生産設備をまったく持たないのも「もの作りに関しては、我々より優れた会社がいくらでもあるから、そこにお願いすれば良い。当社は頭脳で生きて行くところに価値がある」ある年の特許広告件数ではNECに次いで7番目の記録があった。 閑話休題たまたま中国から江沢民国家主席が来日されている。国交回復に大変なご努力をされた岡崎嘉平太さんの功績を思わざるを得ない。ご本人は「功績と航跡は同じ、後から人が認めるもの」結果良ければ俺がやった。悪ければ他人がやった。という人達に聞かせてやりたい言葉ではある。 |