形彫り放電加工は 如何にして育まれてきたか? |
佐々木和夫 |
● 放電加工技術研究会の発足とその周辺事情 |
昭和32年、小さいながらも本社ビルが建ち、新卒社員を含む人員の補充も急速に行われて、会社としての体裁も着々と整いつつあった。その頃、私は放電研削盤の商品試作などをやっていたが、一方では、型彫り機によるプレス抜き型へのアプリケーションが確実に成果を上げ始めていた。ほとんどがユーザである電機メーカからの成功例の報告というようなかたちで入ってきた。その取りまとめが、三水竹千代さん(故人・後にさみす製作所創業)である。 私は内心放電研削より型彫りの方が将来性もあるし、特化してやるべきと思い始めていた。従兄弟の考え方の影響もある。従兄弟の丹羽顧問は、放電研削など、さほどの将来性がないと主張し、井上さんとぶつかり始めたようである。そこでこの年、井上さんが初の海外出張ということで、ロシアに出かけた留守に、勝手に型彫りに転向してしまった。なお、ロシアには久保田護先生(茨城大学・ロシア文献翻訳資料多数)と一緒で、EDMの創始者と言われるラザレンコ氏のところも訪ねている。 帰国後に当然ながらえらく叱られた。「辞めてしまえ!」とも言われたようだが、簡単には辞められない恩義も生じていた。ご自宅に押し掛けてはさんざん御馳走になったり、いろいろとお世話になってもいた。しかし、そんなことから型彫りに割く時間をしだいに増やしてもらったように思う。後に放電研削は、池貝鉄工から出向してきた町田さん(現放電精密取締役)にバトンタッチした。時期は正確には覚えていない。なお放電研削はさらに電解放電研削(ECDM)となり、延々と続いたが、型彫りにくらべたら台数的にも微々たるものである。 この年の夏、放電加工技術研究会の発起人会が、新装になった本社ビルの応接室で開かれ、秋には設立総会および第1回研究会を開こうということになった。設立の趣旨は、総会時の井上常任理事の挨拶より少し借りると「私ども加工機を研究している者は、加工法も含めて研究し、発表して皆様にご利用いただくことは勿論でありますが、何としても専門的な知識も乏しく、限られた時間に限られた人間の行う研究では、多くの人々の総力に比すべくもありません…」皆で協力しあって、放電加工の普及発展に寄与しましょうというものである。 秋の10月、機械会館を会場として、設立総会が開かれ、約70名(53社3大学)の出席を得た。 会員の主力をユーザとし、ユーザ数が100社に満たない時期なので、よく参加していただいたものである。参加できなかった人達には会報によって知らせるべく、放電加工技術研究会誌の発行もやることになり、創刊号を翌昭和33年2月に発行した。実はこれを第1号とする会誌が名称を変えて今も続いている。虎の門の未踏科学技術協会(理事長栗野常久氏)発行の「未踏科学技術」がそれで、3月で321号になる。YJS短信は86号であるから321号になるまでは私はたぶん生きていない。 初代理事長にはその後の理事会で、互選により横河電気の今泉さんが選ばれたと思う。横河電機のテスターなどにEDMの梨地をそのまま活かしたデザインはこの人の発想である。また電極に銀タグステンを使用したハシリでもあった。 ところでこれより先に、東京大学の鳳先生、倉藤先生(故人)らをリーダーとする「放電加工研究会」はすでに発足しており、これを追うかたちになった。「放電加工研究会」が「放電加工技術研究会」の発足を喜ぶはずがない。だいたい名前がなんとも紛らわしい。「技術」が付くか付かないかの違いである。事実その後かなり間違えられたように思う。それに会員の取りっこになる可能性もある。 両研究会、上の方ではそれなりの確執もあったようだが、下の方は別に気にすることもなく、向こうの研究会の方にもよく出入りした。「技術」が付かない方は、セオリーを主にするのに対して、我々の「放電加工技術研究会」はプラクティスを主として、現場に役に立つ情報を心掛けた。なお学校関係でも、東京工大、千葉大、防衛大、少し後に東北大などには、理事や専門委員として、我々の会にもご協力いただいた。 このへんで、若干、私生活の方も振り返ってみましょう。今の若い人達には考えられないような生活だろうと思う。池貝鉄工西寮はかなり古く老朽化した建物であった。おそらく大正か昭和のはじめに建てたものかと思う。その6畳一部屋に同僚と3人で住んでいた。一人畳2枚分である。室内に電気はきているが、ガスも水道もない。 工場敷地内にあるから、始業5分前の予鈴がよく聞こえる。それが我々の目覚まし時計であった。会社までは、敷地の端から端まで約300bはあったから、かなり急がねばならないが、その中間にある食堂で朝食もとらねばならないので大忙しの5分間である。朝食を1、2分で済ましても会社までは、全力疾走しないとタイムカードに間に合わない。そのうち3人で走るのはつまらないから、当番を決めて一人だけ代表で走ることにした。 5分間で、着替えをし、食事をし、300b移動するので、否応なしに飯の早食いをやらざるを得なかったが、どんぶり飯に味噌汁をぶっかけて掻き込むのに1分もあれば何とかなったように思う。座らないほうが少し時間の短縮になる。会社に着いてから、ひげを剃ったり歯を磨いたりしていたのだからひどい話。寮では、流しとかトイレとか共同なので、混雑時にはあまり使う気がしなかった。風呂もないから銭湯である。要するに寮なるものは生活の場という感覚はなく単なるベッドである。実は前の会社のとき、ある謹厳な先輩の下宿を訪ねたら、おびただしい専門書が壁一面の書架に収納されており、それを見習うつもりだったが、畳み2枚では無理な話である。余談であるが、この先輩、後に大会社(W−EDMもつくっている)の専務となり、勉強している人はさすがと思わせた。いずれお目にかかる機会を得たいものである。 先輩のような下宿生活では当時で月8,000円とか1万円とか掛かる。私の寮費プラス食費1,400円とは大差なのである。そんなにして節約した金は何に使ったか? 残念ながら専門書ならぬ家を買うのに使ってしまった。外部要因もあったからではあるが、家など買うことにしたため本を買う余裕がなくなってしまったその顛末を手短に述べてみましょう。 従兄弟の丹羽さん、府中の家が手狭になってきたので、家を建てるべく菊名(新横浜に近い)に100坪100万で土地を買った。住んでいる家は私に20万円で譲ると言われるし、会社も無利子で金を貸してくれるという。菊名の土地20坪分である。ただし、府中の家は借地であるから地上権を買うようなものである。瞬時のためらいもなく買うことにし、月々10,000円づつ返済することにした。残業しなければ手取り13,000円くらいの時だったと思う。 そんなわけで私の天引き生活は始まり、3年以上続いた。借金は返したが、結婚資金に最低15万円は要ると言われ、そのまま継続したためである。ついでながら、府中の家に住む段になっての改修工事と借地権の更新などで30万円ほど掛かったから、購入費以上であり、いつまで経っても天引き生活が続くのであった。そんなわけで、あまり遊びにいく金もなく、寮は寝るだけだから、自ずと会社に居る時間が長かった。課題はいくらでもあるから、時間はいくらでも要る。ある時期は自分勝手に定時を10時と決めていた時もあった。 当時の放電加工機は、動かしている限り、長時間無人で放置することができない。火災の危険監視と、状況に応じたオペレータの調整が必要である。また、一度加工を始めてしまったら、終わるまで止めたくない。翌日まで止めておくと温度変位が必ずのように発生して問題になる。いきおい夜を徹してでも付き合うことになる。時間の予定も立たないので寮にいる者が頼りにされるわけである。 この問題はユーザ側でも同じである。機械のそばにベッドを置いている会社もあった。また、ちょっとしたスキに火災を起こしたところもあり、浅草のH鉄工のように年に2回も火事騒ぎを起こした会社もあった。「もっと安心できる機械に!」というのも当然の声である。 |