放電加工補遺物語
− 続・みちのく出張旅行(1/2) −
 みちのく出張旅行2日目の夜、福島県松川から我がなつかしのふるさと仙台駅に着いた。 今の仙台駅とは違う木造のまだ古風な駅である。 東北新幹線開通を機に仙台駅も見違えるほど大きくなり、昔の面影今いずこ?である。 東北新幹線と東北高速道の完成によって、東北地区の首都圏からの距離感覚がぐっと縮まり、 企業の進出も盛んになっていったが、この頃はまだ本格的な工場誘致がはじまる少し前である。
私ごとになって恐縮だが、私の生まれ育った家は、仙台駅裏から徒歩5〜6分の当時の寺町の入り口付近にある。 両親に妹3人弟3人の大家族でいつもにぎやかだった。 おふくろは私の大好物だった新鮮なホヤを買って、楽しみに待っていてくれるので、 それで一杯やるのがふるさとに帰る楽しみの一つだった。
 特に新鮮なプリプリしたホヤにはあやしい魅力があり、酒の肴には最高である。 私の中学時代の級友S君は、学校帰りに魚屋の店先でこのホヤをたまたま見つけると、目が点になる。 買うや否や、あれよあれよという間に店先で、二つ三つ丸ごと頬張ってしまうので、 まわりがびっくりする。 大口を上げて天を仰ぎ、みかん色の丸いホヤを口中目がけて落下させる光景が目に浮かぶ。 包丁を入れず、丸ごとそっくり食べてしまうのが一番おいしいと思う。

いま住んでいる川崎でも時々塩水と一緒にビニールの袋に入ったのが売られているが、 酒の肴には塩から過ぎてどうもいけない。 あの独特の香りも抜けてしまっている。 だいたい塩水に漬けるようなのは、ホヤの中でも、もともといいやつではないのであろう。 日本近海に300種あるという。マボヤのそれも3年ものが特に美味とか。
 塩水ホヤや、鮮度が落ちて捨てる寸前のようなホヤを食べて、 ホヤなんかおいしくないと言われても私に責任はない。 真空パックの笹かまぼこのようにはいかないのである。 こちらでホヤの不人気は案外そんなところにも原因があるように思う。
以前、ソディックに居た食通の三水篁専務(当時)に横浜の関内まで、 ホヤを食べ連れていかれたことがある。行列をつくるようなその店のホヤはさすがにおいしかった。 多分本物のマボヤだったろうと思う。 マボヤはツルの味がするというのだが、ツルは食べたことがないので比べようがない。

仙台市は、さとう宗幸の"青葉城恋歌"でも「緑さやけき杜(もり)の都…」とか歌われているが、 三方を丘陵の緑に囲まれた伊達六十二万石の城下町である。 青葉城祉からは旧市街が一望に見渡せ、よく晴れた日はそのかなたに太平洋がキラキラしていた。 もっとも、その緑もその後の市街地の膨脹でかなり切り取られ、 昔狸や狐が出たようなところまで住宅地になった。 「ふるさとに入りて先ず心傷むかな 道広くなり橋もあたらし」石川啄木のうたが想い出される。
旅の3日目は、学都仙台ともいわれた仙台市内の母校東北大工学部の金属工学科を訪ねた。 当時の片平丁キャンパスまでは仙台の実家から15分もあれば行ける。 ここでは同学科の金子秀夫先生のもとで助手をしていた島好範さん(のちに井上ジャパックス研究所に入社)に会い、 放電加工の現状とか電極材料の研究開発とかに関していろいろお話しした。
島さんとはこのときが初対面だったが、その後長いお付き合いになり、 金属材料のことに関してはよろず金属便覧的先生になってもらった。 IJRを去る時は、先輩の引きで好条件の職場を得たとニコニコして報告に来てくれたが、 その後のことは知らない。

金子先生には放電加工技術研究会・電極材料専門委員会の委員長をお願いしたり、 いろいろとお世話になった。何しろ、放電加工がコンデンサ電源の時代は、 電極消耗比の改善向上は、新しい電極材料の開発に期待するしかなかったのである。
放電加工技術研究会活動の将来として、順次各地区に支部をつくってゆく構想があり、 東北地区に支部を置くなら仙台であり、東北大学が拠点としては望ましかったが、 この時点では、まだユーザ数も少ないので将来の発展を計ろうという布石の段階だったように思う。

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