放電加工補遺物語
− 放電加工技術の黎明(3)(2/2) −
「お前な。韓国の人達に最新技術を教えてみろ。我々皆失業だよ!教えちゃいかん。 自分の首を締める。」新幹線の中かどこかで一杯やってきて勢いがついていたらしかった。 次第に冷静になられたが、思いがけない大声には肝を冷やした。
 そんなことはあったが、韓国放電技術研究会がめでたく発足することになった。 ついては発足記念講演会をやるから放電加工技術研究会から2〜3名講師を派遣して欲しいとの要請があった。 2、3ヶ所の会場でやるというのである。
 講演のテーマは「日本における最新の放電加工技術」であるが、 一応はテキストもつくらねばならない。 ユーザ会員の方々は時間が取れないので、結局ジャパックスから、 当時放電加工主任技師の私と、電解研削主任技師だった米花さんとが行くことになった。 昭和46年の秋である。

   テキストの出来るのが出発日ギリギリになってしまい、ハンドキャリーになってしまったが、 200部とか300部とか言うので、引きずるようにして持って行った。 その上に李さんに頼まれた秋葉原の家電製品まであったから、かるく重量オーバーである。
 こんな大荷物を持って行ったので、空港税関でトラブってしまった。 なかなか出て来ない我々を心配して、柵越しに覗いていた李さんだったか部長さんだったかが、 税官吏に走り寄って何やらチョコチョコとやったらすぐOKになった。
 講演会は学校の講堂を借りて盛況裡に行われた。 私はここではじめて通訳付きの話をしたが、 私ごときに通訳が何とソウル大学工学部の朴教授だから恐れ多い。 通訳付きの話というのは本当にラクだった。半分は休憩時間である。 聴衆の約半分の年輩者は日本語がわかるが半分の若い人には日本語が通じないとのことだった。
 私の話で理解が難しいかなと思う部分があると、時々朴教授の懇切な説明が入る。 大学教授だけあってなかなか話もうまいし大いに助かった。 半分はやっていただいたようなものである。

 この講演会は有料で当時の5百ウオンの受講料をとった。 諸経費の足しにしようと言うのであろう。 受講者百人超だったというから百人としても5万ウオンの受講料収入となった。 当時は一万円で9千ウオンのレートだったから、ウオンの方が円より約1割高かった。 5百ウオン札以上の紙幣がなかった時代である。
 逗留したソウルのホテル(ロイヤルホテル)で、一万円札2枚を両替したら、 何と36枚のシワクチャ5百ウオン札になったので、財布がやけに膨らみ金持ちになった気分である。 昼食のうなぎ定食が小料理屋の個室で女性のお給仕が一人つききりで、 一人前5百ウオンの時代だから、今の日本の2〜3千円の価値はあったのではないかと思う。
 連日の夜の宴会は結構楽しかったが、打ち上げは特に豪勢だった。 韓国放電加工技術研究会の主だった人達に、ゲストの我々を加えて10人ばかりの人が、 銀座なる日本式料亭に会し、豪華な酒肴とそれぞれ各人に美女が一人つくという派手やかさである。
   生きた日本人形のような人が韓国の女性で、 典型的な韓国女性と思っていた人が実は日本人だったりして頭がおかしくなりそうだった。 当時は戒厳令下にあって、12時以降の外出禁止令が出ており、 反すると射殺されるかも知れないと驚かされていたので、夜は早々にホテルに引き上げていた。 酔っ払っていて射殺でもされたら帰れなくなる。 当時堅いと評判だった二人のこと、美女を前にしても決して誘惑に負けなかった。

   そんなある朝、万事に慎重な相棒の米花さんが所在不明になった。 いつも決めていた時刻に食堂には降りて来ないし部屋にも居ない。 楽観派の私もさすがに心配になって20分程大きなホテル内を右往左往した。 もちろん携帯電話などまだない。
   不可解な出来事に困惑していたら、憮然とした表情で彼が現れた。 今までエレベータの中に閉じ込められていたというのである。 ソウルでも上位クラスのホテルで、そんな事故とは夢にも思わなかった。 エレベータはいくつもあるし、館内放送があるわけでもないしわかりっこない。
 当時の韓国の技術はすべからく日本より十数年遅れていると言われていた。 確かに放電加工の話にしても十数年前の日本の黎明期の状況によく似ていた。 韓国放電加工技術研究会の果たす役割もそれなりの意義があるものと感じたのだった。 少なくとも今回の設立記念講演会でも2百人から3百人の人達に、 日本の放電加工の現状を知ってもらうことができ、それなりに活発なご質問もいただいた。 朴教授や李社長や多くの皆さんに助けられて何とか責務を果たしたと言う思いの楽しい出張旅行だった。 
(つづく)

目次に戻る)  (前頁) (次頁