放電加工補遺物語
− 岡崎嘉平太さんのこと[2] (1/2) −
  読者よりのリクエストもあって、人について書くことに挑戦してみたが、自分より遥かに優れた大先達のことを書くのだから僭越でもあり、大変なことではある。 プロの作家が、先輩作家のことをよく小説に書いているが、当然ながら、その人の全作品を精読するというのを読んだことがある。
 私も岡崎さんの書かれたものを極力読もうと努めたのが、少し遅くなってしまって、昭和42年11月に日本経済新聞に連載された"私の履歴書"を読み返したのがつい最近である。 岡崎さんが70才の時に書かれたものである。
 平成4年に発行された岡崎嘉平太伝刊行会〔委員長・長野士郎(筆者注:当時の岡山県知事〕〕の521頁に及ぶ"岡崎嘉平太伝"も興味深く読んだ。 年譜41頁、参考文献24頁とは大変な労作である。写真も沢山載せてあるが、池貝鉄工の人とか知っている人もちらほら見える。手持ちの本がないので渋谷図書館で読んだが、 原稿の締切り間際であった。岡崎さんの談話を速記したような形式で、生の声がよく伝わってくる。自宅で階段から転落し、急死なされたその年のインタビューだから貴重な記録である。

 そんな中で、前号に書いたミスに気が付き汗顔の至りである。私の入社した昭和31年には、丸善石油の社長は目的を達して辞められていたし、 日本ヘリコプター(後の全日空)は社外副社長をやられていて、美土路社長の後を継いで、社長に就任されたのは昭和36年である。
 私は岡崎さんの周りを長いこと、うろうろしていた割には、私生活のお話などお聞きする打ち解けた機会がなかった。主に時局などのお話である。 "私の履歴書"にも雑談的なお話はほとんどなかった。岡崎嘉平太伝の各種エピソードは、ジャパックスの社長も降り、 責任のあるお仕事からもほぼ解放されて、ほっとしてのお話だろうと思う。
 そんななかでも、特に親しみを感ずるのは、生まれつきお酒が好きだったということである。以前、新名古屋機械商事のK社長から、 岡崎さんのお供をして歩いた頃のお話を聞いた。講演会の前などにコップ酒1〜2杯やって演壇に上がることがあるというのである。 K社長も無類の酒好きだから、酒の上の話かしらなどと思ったものである。

 日本酒は"菊正宗"がお好きだったそうで、昔私も結構飲んだが、少々辛口の庶民的な灘のお酒である。 ある時には一升5合くらい飲んだというお話もあるから、かなりの酒豪である。
 飲んで帰ってもお母さんが心配しないように、玄関前ではピシッと威儀を正し、 飲んでないように装って入ったとかで、母親と同居の息子は辛い。 余談ながら、酒好きな我が子も母親には、ほとんど酔態を見せたことがない。 早めに自分の部屋に逃げ込んでしまうようである。
 そのお母さんが、新婚の奥さんに「嘉平太は、お酒を飲んでも、飲まないふりをするから気を付けなさい。」 と言ったそうな。図書館で周りに人が居るのに、思わず吹き出してしまった。母親は神様のような人でごまかせない。

 同郷の土光敏夫さんは東芝社長になって間もなく、川崎の労働組合の事務所に一升瓶をぶら下げて訪ねたと言うが、 岡崎さんも組合幹部と茶碗酒を飲みながら話し合ったと何かで読んだ。 二人とも組合員からは「オヤジ、オヤジ」と言われたと言うのも同じだが、 二人の社長が通勤電車の中で会って、意気投合したと言う話もすごい。
 土光さんは"無私の人"とよく言われる。岡崎さんは、親交のあった中国の宰相周恩来に傾倒して、 周来恩さんは"無私の人"だと言っているが、岡崎さんご自身もまた"無私の人"だと思う。 その根底にあるのは、母親の信仰心の感化か遺伝子かしらと思う。たまたま両家とも日蓮宗である。 岡崎さんは総社に移ってから毎日総社神社に参ってから学校に行くよう母親から言われたというし、 いろいろな神社に連れて行かれ、のちの中国に関係する吉備の真吉備の菩提寺吉備寺にも何回か連れていかれた。

 余談ながら岡崎嘉平太伝に、学生時代に明治神宮に初詣でした際のお友達との記念写真がある。 神社への参詣はよくされたのだろうと思う。その明治神宮は今年の11/3が八十年祭で、準備が始まった。 明治は遠くなったが、11/3を明治節と言ったのを知る人も少なくなった。

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