放電加工補遺物語 |
− 岡崎嘉平太さんのこと[1] (1/2) − |
今まで、放電加工とJ社の歴史のようなものを、時を追って書いてみた。次なるものはどうしようかと考えていたら、読者から若干のご要望をいただいた。 なかに補遺を書けばと言うお話があり、そうしようと考える。いろいろな部分を少しクローズアップして、比較的自由に書いてみようかと思う。 なお参考までに、補遺とは広辞苑によると「もらし落とした事柄を、拾い補うこと。また、その補ったもの」とある。 <岡崎嘉平太さんのこと> J社創業者の一人で、初代社長である岡崎さんのことから書いてみよう。私の父よりも年上と言う年齢差があり、職位の隔たりも大きいから、直接お話する機会はほとんどなかったが、 間近でお話を聞かせていただく機会はかなりあった。 ●岡崎さんの略歴(岡山放送発行・岡山県名誉県民を参照) 岡崎さんは明治30年、岡山県吉備郡大和町(現上房郡賀陽町)に生まれ、岡山中学、旧制一高を経て大正11年東大法学部政治学科を卒業し日本銀行に入った。 当時の一高には中国からの留学生が170人くらい居て、中国人の友人知己を得、どことなしに中国と中国人が好きになられたと言う。そして、それが後のことに大きな影響を及ぼした。 日本銀行でのベルリン駐在員、本店営業局調査役などを経て、昭和14年、上海華興商業銀行設立にともない理事となり、のち終戦まで大東亜省参事官、 上海在勤日本大使館参事官などを歴任され、上海での戦後処理にも当たられた。 昭和21年上海より帰国、退官し、その後、池貝鉄工社長、丸善社長、全日本空輸(現全日空)社長などに就任、経営者として活躍する。 昭和38年、日中総合貿易使節団長として訪中。翌年には日中覚書事務所代表となり、日中経済交流、日中国交回復に尽くした。 わが国経済界きっての親中家。これらの幅広い活躍の功績によって、昭和53年勲一等瑞宝章を受ける。 賀陽町名誉町民、総社市名誉市民、岡山県名誉県民、中国洛陽市名誉市民。 私がジャパックスに入社した昭和31年、岡崎さんは池貝鉄工社長だった関係で、その子会社の日本放電加工研究所(のちのジャパックス)や、隣のプログレスダイキャスなどの社長も兼務されていた。 もっとも、前報にも書いたように、ジャパックスは岡崎さんと同郷同窓の杉山先生の教え子に井上さんが居たことが発端になった会社なのである。人の縁とは何とも不思議なものである。 岡崎社長は、その時点ですでに、丸善石油社長、全日空社長も兼ねられていたので、めったに会社にお出でになることはなかった。大体その頃の日本放電加工研究所には、 座っていただく応接間一つなかったから、岡崎社長と井上さんたちの会議や打ち合わせは池貝鉄工溝の口工場の一室とか、田村町の池貝鉄工本社で行われた。 そんな状態だったので、前報に書いた、同じバスでの慰安旅行一泊二日の旅は、社長と社員が身近に過ごすまれな時間であった。 一般社員は、その他には、年始とか何かの行事のときにお話をしていただく程度である。 その頃の池貝鉄工は、組合活動が凄く、岡崎さんも苦労されたようで、何編かの随想に書いておられる。 それでも私の入った頃は、第一次再建が成って、組合活動が落ち着いてきた方なのだそうである。 私より少し遅れて入ってきて親しくさせていただいた元全池貝労働組合委員長の田村さん(故人、元田村工機社長)は、 当時常に短刀をふところに入れていたと言うから、かなり厳しかった。 岡崎さんは「私は子供の頃、気が短くて、よくケンカした。」何かの折りに述懐されていた。 ケンカ太郎の異名を持っていたことは後で聞いた。小学一年生から学業成績は群を抜いて優秀だったが、 ケンカ早いのが、家族や先生の悩みだったようである。 激しい池貝労働組合の吊るし上げにも往年のケンカ太郎は耐えに耐えた。艱難に耐えることによって希望を見出すと言われている。 ケンカして辞めてしまうようでは、あとの中国との問題も途中で投げ出すことになったやも知れぬ。 |