放電加工補遺物語

− 放電加工技術の黎明(2)(2/2) −
 創業当時のことをある程度まとめた資料としては、昭和43年発行の創立15周年記念の小冊子 「日本のXを求めて」(赤い表紙の146頁)くらいなものだろう。 故大林当時社長が主に執筆されたものである。社員一人一人に手書きのコメントを付けて配られた。 「長い間苦しみも悦びも共にして来ただけに感無量です。 EDMも第二第三の発展期を迎えているだけに、奮迅の努力をして、我々のTPOの座を守り、 水をあけよう。佐々木和夫様 謹呈 大林徹郎」とある。 しかし病気をされて亡くなられてしまっては仕方がなかった。
 この小冊子の中の"苦難の一、二号機受注"の頃に「岡本工作の隅山良次氏にいただいた放電ナンバリング機が 事実上の放電加工機受注の一号機となった」と書いてある。 東京工大納入の一号機とは別のかげの一号機(専用機)として記憶に残る。

 後年、ひょんなご縁で、その岡本工作機械に顧問として入社することになり、 早速この機械の消息を古参のH常務に尋ねてみた。 「日吉にあった本社工場を撤去移転するときに処分してしまったらしい」 とのことであり残念であった。
 その代わりというわけではないが、この一号機の発注者故<隅山良次氏>をしのぶ"追想隅山良次" (追想隅山良次刊行会代表者牧野常造発行)という赤い表紙の382頁からなる本をいただいた。 工作機械業界を代表するような方々を含め七十数人からの関係者の追想文とご本人の遺稿からなるものである。 追想文執筆者のなかにかなり知っている人たちがいる。お人柄と日工会でのご活躍の成果である。
  金子勝吉さん(元ジャパックス社長故人)の「隅山氏と私」なる追想文の中に、 この一号機受注の様子が書いてあった。 「放電加工機一号機の話。昭和28年頃、ジャパックス(当時日本放電加工研究所) の放電加工機外販一号機を採用していただいた。 人絹ノズル用ポンプ部品に、焼き入れ研磨仕上げの後で、ナンバリングをしたいとの用途でした。 放電加工の研究所を始めたとご挨拶に伺ったら、 "それはよい。ひとつこんな機械を造ってみないか"ということになって一号機の誕生となったものです。」とある。 特別仕様機なのでかげの一号機となった。
 古川利彦さん(現ソディック会長)の「私と隅山先生」と言う追想文もある。 また岡本良平さん(ジャパックスから未踏加工技術協会を経てソディック)のご夫妻連名の 「隅山ご夫妻と私たち」というのがある。 囲碁強豪岡本六段にはずいぶんもんでもらった。世の中以外と狭いものである。

 余談ながら、岡本工作機械を創業した岡本覚三郎さんは、池貝鉄工所を退職して独立した人であり、 その岡本さんが見込んで昭和2年に一番弟子に採用したのが、隅山良次さんであった。 長い間岡本工作機械に勤務し専務取締役までなったが、その後(昭和43年)他に移られた。
 読者の中に知る人が少なかろう<隅山良次>さんについて、岡本工作機械のご縁もあって長々と書いてしまったが、 ともあれ隅山さんは工作機械に関して卓越したご意見をいろいろと立派な文章で書き残されている。 作文を練習中の私には特に文章にも関心が深いのでした。
 ところで、この事実上の一号機と称するナンバリングマシンであるが、 岡本工作機械では、前述のように焼き入れ研削したポンプ部品に管理用のナンバーを刻印するために使われた。 それまでは焼き入れ鋼のナンバリングには放電のさらに原始的な応用である電気ペンあるいは薬品によるエッチング加工が使われたが、 放電刻印機によってより早くきれいに出来るようになった。

 そんなわけで、放電加工の実用化で、最初にお金になったのは放電刻印機であった。 と言っても、メカの刻印機とは違い、総型電極をつくっておいて放電加工するのだからいろいろな電極が要る。 数字やアルファベット文字や社章などを黄銅でつくった電極も受託販売していた。
 放電刻印機はマーキングマシンとかスタンピングマシンとも呼ばれ、 放電加工の初期的応用としてはまことに都合のよいものであった。 加工が浅いからサーボストロークはわずかでよく、精度を云々することもない。
 標準的形彫り放電加工機が定期的に流れるようになって、放電刻印機なるものは、 その流れの中に吸収されていった。 要するに単に浅く加工したのが刻印だから別の機械として存在する理由がほとんどなくなった。 刻印機という名前であとあとまで残ったのはロール刻印機くらいなものである。

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