続・形彫り放電加工は如何にして育まれてきたのか?

佐々木和夫

6.超精密放電加工機の開発
 時間軸は多少前後するが、高精度加工を目指した放電加工機のことも無視してしまうわけにはいかないようである。あまり成功したとは言えないが、MITUI・SEIKI−JAPAXをつくった話も加えて置こうと思う。
 時は少しさかのぼって昭和40年、モスクワの日本産業見本市に参加した話をしたが、そのときの出品仲間にジグボーラーの三井精機さんがあった。同じ東邦物産(三井物産のダミー)の小間で背中合わせに出品したのである。18日もの長い会期の間、お互いにお互いの出品機を見学し合っていた。その時の三井精機の担当者は、谷口さん(後に専務)とパリに駐在していた戸島さん(故人)である。モスクワでの生活が1と月以上一緒だったので、三井精機−ジャパックスの話はどちらからともなく雑談的には出ていたように思う。提携マシンをやって成算があるかどうかが問題ではあった。

 スイスのアジェ社やシャルミー社が、治具ボーラーをベースマシンとした、シップ−アジェとかシャルミー−ハウザーを製造販売して、時計やカメラの業界では好評であった。キャノンとか精工社などの既納ユーザーを席巻されてしまいそうだった。そこで、商社などから国産でそれに匹敵する機械ができないものかという要望が起こってきた。当時まだ舶来品はかなり高かったのでチャンスはある。
 チャンス到来とばかりに、三井ージャパックスの商品企画に関する根回しを始めたのであるが、問題は販売見込み台数である。当時営業部長の長谷川さん(現未踏加工技術センター相談役)から月5台の数字をもらい、会議では賛成多数でゴーすることとなった。もっとも月5台にはいろいろ条件が付いたと思うが、往々にして数字だけが一人歩きする。ともかく三井精機を訪ねて、かつてのモスクワ仲間に会い相談した。戸島氏はパリ駐在からカンバックしており、大学の同級生なので気心も知れており好都合である。

 基本的には会社として賛意を表明していただき、社長の来訪などあったりして、具体的に進めることになった。担当者は、ジャパックスは宮野技師(現立山製紙)で、三井精機側は技術部次長のOさんであった。
 この機械の目標とするところは、すべての点で従来機より精度の高いことであるが、特に狙った第一は、治具ボーラー同等の高精度のピッチ送りが出来ることである。0.1 ミクロン読取りのオプチカルリーダーによって、マニアルで1ミクロン級の位置精度を狙った。測長機としても使える精度である。
 もう一つは、高精度回転スピンドルである。従来はアタッチメント方式がほとんどであるが、ガイドスパンが短いために回転精度があまり良くない。組み込み型で精度を上げる試みがあった。

 放電加工機に改造するための絶縁と通電がやはり問題になった。絶縁材料は、今はセラミックスが進んでいるが、当時はベークか樹脂である。精度の確保には難があった。樹脂モールドで試作した最初のスピンドルは、8本に良品1本とかの惨澹たる成績だった。経時変化が生ずる。ラムが上下し、それに内臓したスピンドルが回転するタイプであるが、そのラムのガイドを、先方の提案も入れて面ガイドにしたのが、後々に問題を残した。最も精度を保ちやすいし、潤滑を充分にすれば問題なしと言う見解であった。サーボの細かい上下動に耐えられるか心配しながら進めたが、何回かかじりのトラブルが発生した。いろいろ問題はあったが、ともかく試作品は完成し「DP−2A」と名付けられた。
 精密放電加工機用の電源としてはUFKというタイプのものを装備した。Kはノブの意味で、UF電源の別系統のシリーズで、ピーク電流や、パルス幅、休止時間をノブで任意に決められるもので、この機械用に仕上げ領域をきめこまかく分割した特別仕様が作られた。加工面粗さは特別に細かく出来るようにしたと思う。
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